実家に帰って漫画を読んだ。
「オレに才能なんて無い」
そんな言葉が載っていた。
昔、自分がこれを言っていたことを思い出した。
後ろに、だから努力するんだ、をつけて。
これは、MITで教授をしている日本人の言葉に影響を受けたものだった。
彼が言った言葉を僕も、言った。
「オレに才能なんて無い、だから努力するんだ」
この言葉の後ろに、言い訳が見える気がしてきた。
失敗したとき、僕はがんばった、けど才能が無かったんだ。
そう、言うつもりなのではないか?
逃げ道を残したかったのではないか?
彼はすでに成功している。僕は、まだ、だった。
宣言しよう。
僕には、才能がある。
もし、失敗したなら、それは全て、僕の努力不足のせいだ。
==================
エネルギーを探していたら出てきた
21歳の自分の文章。ひとまわり。
よいお年を。
2019年12月28日土曜日
2019年12月21日土曜日
絡
線形代数の授業を、しながら考えた。
去年も、同じことを教えたな。
みんな同じように、学んでいくな。
来年、再来年と繰り返されるのだろうな。
人は生まれて、死ぬからなのだろうな。
まったく、人は、社会は、非効率だ。
でも、そんな、非効率が、良いのかもな。
効率を追い求めると、人間味が失われる。
そんなことを、誰かが言ってたな。
無駄なことに、価値がある。なんてね。
それでも、人は積み上げて、
すっごい文化や文明がある。すげーな。
数学は、使われようによっては、いろいろを効率的にする。してしまう。
その学ばれ方に、非効率を感じるなどなど。
絡まってんな。
去年も、同じことを教えたな。
みんな同じように、学んでいくな。
来年、再来年と繰り返されるのだろうな。
人は生まれて、死ぬからなのだろうな。
まったく、人は、社会は、非効率だ。
でも、そんな、非効率が、良いのかもな。
効率を追い求めると、人間味が失われる。
そんなことを、誰かが言ってたな。
無駄なことに、価値がある。なんてね。
それでも、人は積み上げて、
すっごい文化や文明がある。すげーな。
数学は、使われようによっては、いろいろを効率的にする。してしまう。
その学ばれ方に、非効率を感じるなどなど。
絡まってんな。
2019年12月14日土曜日
ハイリホー
背理法というのは、目的の主張が「間違ってると仮定」して、すでに正しいと証明されている事実に"ぶつけて"、矛盾を導く論法である。矛盾は「間違っていると仮定したこと」が間違っているから生じた、つまり目的の主張は正しいのだ、という論法。
論法自体は正しい、だけどこれが「体に悪い」と思っている人が少なからず、いる。
背理法は「正しくない仮定」から議論を始めるので、導かれる主張はすべて「正しくない」。正しくない主張の中で時間を過ごすと、「正しいもの」への感覚が鈍る。いつ自分が正しい世界にいて、いつ自分が正しくない世界にいるのか、きちんと記憶して、分けて体に入れられたらいいのだろうけど、少なくともぼくはそんなに賢くないので、背理法はいつも怖い。正しいものを知るためには、正しい世界にいる感覚を体で覚えるのが大事だと思っている。
そんなことを思って、試験というものに思いを馳せてみた。
間違えると、バツがつく。とてもいやで、気になって、落ち込む。
周りにも言われるし、どうして間違ったかを見直す。次は間違わないように。間違わないように。
ぼくも学生のころ、そうやってきた。
いつも正しいのか、不安だった。
本当は、「正しいとき」に重きをおいた方が良いのではないかと思い始めている。
自分が正しい議論をしているときに、きちんと「正しい」と信じられること。
これが、とても難しい。でも、本当に大事。
この訓練が、おろそかになっていないだろうか。
演習問題に答えが欲しいと言われる。
ただ、多くの本に答えが載っていないからこそ、「自分が正しい」状態がどういうものか、訓練ができるのではないかとも思う。
正直、僕自身まだまだできていない部分が多い。
だけど、数学に限らず、何かを自分でやろうと思ったら。
なかなか認められないこともきっとある。
正しいと、信じられる何かを持っていることは大事だろうなと思う。
論法自体は正しい、だけどこれが「体に悪い」と思っている人が少なからず、いる。
背理法は「正しくない仮定」から議論を始めるので、導かれる主張はすべて「正しくない」。正しくない主張の中で時間を過ごすと、「正しいもの」への感覚が鈍る。いつ自分が正しい世界にいて、いつ自分が正しくない世界にいるのか、きちんと記憶して、分けて体に入れられたらいいのだろうけど、少なくともぼくはそんなに賢くないので、背理法はいつも怖い。正しいものを知るためには、正しい世界にいる感覚を体で覚えるのが大事だと思っている。
そんなことを思って、試験というものに思いを馳せてみた。
間違えると、バツがつく。とてもいやで、気になって、落ち込む。
周りにも言われるし、どうして間違ったかを見直す。次は間違わないように。間違わないように。
ぼくも学生のころ、そうやってきた。
いつも正しいのか、不安だった。
本当は、「正しいとき」に重きをおいた方が良いのではないかと思い始めている。
自分が正しい議論をしているときに、きちんと「正しい」と信じられること。
これが、とても難しい。でも、本当に大事。
この訓練が、おろそかになっていないだろうか。
演習問題に答えが欲しいと言われる。
ただ、多くの本に答えが載っていないからこそ、「自分が正しい」状態がどういうものか、訓練ができるのではないかとも思う。
正直、僕自身まだまだできていない部分が多い。
だけど、数学に限らず、何かを自分でやろうと思ったら。
なかなか認められないこともきっとある。
正しいと、信じられる何かを持っていることは大事だろうなと思う。
2019年12月7日土曜日
小さな
「ごめんなさいね。パン一つ落としてしまって。ご馳走様でした。」
「あ、そうでしたか。有難うございました。」
近所の、小さなカフェの店長さんと仲良し。
「いつも素敵なご家族なんですよ。」
店に一人残った僕に話しかけてきた。
「確かに、いい雰囲気でしたね。」
「最後の一言、お店としてはとても嬉しいんです。」
「パンですか?」
「はい、やっぱり一つだけ残っていると、色々と考えてしまうので。」
「ああ、なるほど。そうですよね。」
「いい、ご家族なんですよ。」
嬉しそうだった。
路地裏にある、小さいカフェ。
気に入って、結構な頻度で通っている。
小さなカフェが一つあって、
それがきっかけで
街の中に暖かい時間ができる。
こんな「カフェ」みたいな場所に、数学があったらいいかもなと思っている。
小さな数学が一つがあって、
それがきっかけで
心の中に暖かい時間ができる。
こんな風にならないかな。
うん、ならないか(笑)
「あ、そうでしたか。有難うございました。」
近所の、小さなカフェの店長さんと仲良し。
「いつも素敵なご家族なんですよ。」
店に一人残った僕に話しかけてきた。
「確かに、いい雰囲気でしたね。」
「最後の一言、お店としてはとても嬉しいんです。」
「パンですか?」
「はい、やっぱり一つだけ残っていると、色々と考えてしまうので。」
「ああ、なるほど。そうですよね。」
「いい、ご家族なんですよ。」
嬉しそうだった。
路地裏にある、小さいカフェ。
気に入って、結構な頻度で通っている。
小さなカフェが一つあって、
それがきっかけで
街の中に暖かい時間ができる。
こんな「カフェ」みたいな場所に、数学があったらいいかもなと思っている。
小さな数学が一つがあって、
それがきっかけで
心の中に暖かい時間ができる。
こんな風にならないかな。
うん、ならないか(笑)
登録:
投稿 (Atom)