2017年12月16日土曜日

ケチャップ

ぼくは最初の論文を書くのが遅い人でした。

簡単に言うと、工学から純粋数学へ移るという、
なかなかどうして頭のおかしいことをやったのが
理由です。

でも、ぼくはかなり「準備をして」数学の世界へ飛び込みました。
大学院に入りたての段階で、
基礎知識は博士課程に進むつもりで研究してる友達と比べても
それほど劣るものではなかったかと思います。

でも、今となってみると「数学のやり方」をわかっていなかった。
とくに、大学4年間を数学科で過ごすと''自然''に身につく感覚のようなものがどうやらあるようです。
準備がそれなりにできていて、セミナーなどを順調にこなしたぼくがいざ、
研究の段階に入ると、急に何もできなくなりました。

何かが足りない。

師匠が気づいたのは大学院の4年目(標準は5年)のはじめくらいでした。
共同研究者や周りの人にそれを''補って''もらいながら、
それが何か、わからないままに博士号をもらいました。

きっかけ一つで、論文なんていくらでも書けるようになる

拠り所にしていたアドバイス。

博士号を取った後、どこかで教えるまえに、
ぼくはその何か、きっかけを掴む必要がある。

そう思い、一人で研究をするように心がけていました。

苦労して、失敗して、少しだけその「何か」がつかめた感じがした。
それは、数学がひとりでに動きだしたときでした。

ぼくが間違えても、数学はそれを教えてくれて、正しい方向まで示してくれる、そんな経験。

いま、ケチャップがドバッとでています。
まとまりつつあるものから、まだまだこれからなものまで。

こりゃ、大変だな。

そんな気分です。

2017年12月9日土曜日

数学と工学4

工学部ではよく聞く「役に立つ」ということば。

この研究はこんな風に「役に立つ」
制御理論はたとえば飛行機を安全に飛ばすのに
線形代数はたとえば画像、映像を編集するのに
整数論はたとえば通信の安全性に、正確さに
グラフ理論はたとえばアルゴリズムを作るのに
プログラミングができれば、たくさんのものを作るのに

役に立つ。

役に立つって、なんだ?
きっと考えないほうが良いことを、考え始めてしまったのです。

そのとき、ぼくが手に持っていたのは携帯電話でした。
世の中にあふれている、工学部で考える「役に立つ」ものの代表格。

確かに、便利。
いつでもどこでも、話せる、メッセージを送れる。

でも、だから、いつでもどこでも、電話がかかってきて、メッセージがやってくる。
これを嫌がっている人は結構いる、とくに数学をやっている人では

ぼくは、それに加えてなんというか、距離感、が苦手だった。
ひとと、ひととが仲良くなるのを妨げているような、そんな感じ。

携帯電話がない時代の、待ち合わせってすごいなといつも思う。
ともすると、現代では奇跡みたいな扱いを受けることを
日常的にやっていたんだろうなと

まぁ、適当に現地で!
それができるのは本当に便利だし、すごいと思うけどその分
当時必要だった信頼関係とか、暗黙のルールとか
ちょっと素敵なものが"必要なく"なってしまっていると思っていた。

さらに、インターネットでたくさんのものに触れられるようになり
どんどん、どんどん情報過多に。

広く薄く、広く薄く。
そんな感覚にどうにもうまく付き合えない。

そんなとき、数学に出会い、その
深さに、静けさに、確かさに
あぁ、なくなりそうなものを、とても大事にしている世界があると思いました。

たくさんの家電ができて、いろいろな作業が"楽に"なった。
けれど、大変だったからこそ、よく見えた"工夫"があったはず。

世の中がどんどん"便利に"なっていくなか、
知らず知らずのうちに失ってしまいそうなものが
ここにはあるなと思ったのです。

ぼくの高校では、1年生の時に「校長先生の授業」があった。
ものすごく人気のあった校長先生がやめた、そのあと1年目の校長先生。
とんでもない気合いで、本当の意味の
「豊かさ」とは何か
そんなテーマで授業をしていた。
間違いなく、本気の、授業だった。

まだガラケーを使っているぼく。
「遅れてる」と言われることもある。

でも、ぼくは"そっち"が本当に前なのかわからなかった。

当時の悩みを思い出しつつ書いて、まとまりがなくなっていますが
その後、数学を選んだことは、
ぼくにとっては
正解だったと思っています。
当時は知りませんでしたが、数学は本当に自由な学問で
そしてぼくはとても自由人でした。ぴったり。

とりあえず、数学と工学、おわりです。

2017年12月2日土曜日

数学と工学3

続いています(数学と工学)。

数学をやりつつも、サークルで演劇もしていました。
11月に先輩の卒業公演があり、それは夢中で準備しました。
その間、勉強はぼちぼち。
実は演劇も、数学と同じくらい面白いと感じていました。
高校のときにもスポーツ、囲碁、いろいろ面白いと思っていました。
そして、一つわかっていたのは、
「本気で」やらないと本当のところはわからないこと。

舞台を本気で作るのは楽しかった。
同時に、細かないろいろで、自分のセンスのなさも、感じてしまった。
(演劇経験は、今、数学の講演をするのに生きています)

卒業公演が終わった後、ぼくは数学に「本気」を出すことをした。

高校時代、囲碁をやっていて、ある棋士が言っていた言葉。
「本気で囲碁を勉強していたときは、人差し指の爪がのびなかった」
碁石を打つとき、人差し指の爪をなぞるように碁石を回すので、
削れて、爪が伸びなかったのだそう。

高校のとき、自分なりに、囲碁を一生懸命やっていた。
1日最低5時間くらいは碁石にさわっていたはず。
でも、爪は普通にのびました。

のちに、爪が伸びないためには、
ご飯、トイレ、そういった最低限を除いた「すべて」
を捧げる必要があったと知りました。

そこ、を目指しました。
目指したものの、きっと理想の"半分"程度しか実現できませんでした。
それでも、人間は1ヶ月、そんな生活をすると
会話ができなくなるということを知りました。

実を言うと、今でもそうで、数学に頭を使い過ぎてからひとに会うと
うまく会話ができないことが多いです。
なので、ひとと会う前には少し、頭をやすめる時間をとるようにしています。

ちなみに、ですが、会話ができなくなったあと、
ぼくは少しの間、(めずらしく)テレビをたくさん見ました。
会話のプロが楽しく話すのをみて、
いろいろなコツを勉強しました。
なんだか、本当にいろいろなところに学ぶところがあって
それは面白い体験でした。
ぼくはそんなに話がうまいわけではないですが、オススメです。
(今はテレビを持っていませんが)

話は戻って数学。
工学から、数学に転向したい。
そういったとき、ほとんどの大人に反対されました。
当時のぼくにいまアドバイスするならば、

"爪が伸びないレベル"の努力を継続できれば大丈夫

そんなことを言ってくれるひとはいなかったので、
ネットの海の片隅に、書いておきたいなと思っていました。
ようやく書けました。

当時を思い出すと、現在のぼくはずいぶん努力不足。
でも、これを書いて「がんばる」の自分なりの意味を確認できてよかったです。

もう少し、当時考えていたことを書きたいと思っているので、続きます。