2023年8月12日土曜日

数学と英語

「 理想三角形」ってどの辺が「理想」なんですか?
学生に尋ねられて、少しだけ英語について授業で話をした。

「理想三角形」は「ideal triangle」の訳語である。
頂点が考えている空間の上にないので(無限遠境界上にある)、"頂点が存在する体で"三角形を考えている。「ideal」を安直に訳して「理想」である。英単語のideal を辞書を調べてみると(PCに入っている「ウィズダム英和辞典 / ウィズダム和英辞典」を使用)

1 «…にとって» 理想的な, 最適な, 申し分ない «for» 2 名詞の前で〗(理想を満たす)想像上の, 空想上の世界・社会・仕事など〉; 非現実的な〈計画など〉(↔ real, actual) 3 〘哲〙 観念(), イデアの.となる。意味合いとしては2と少し3が近い。無限遠境界は考えようによっては存在しているし、立場を変えれば存在していないとも思うことができ、あったら嬉しいけれど、想像上のものと見るのが良いかな?の「ideal」である。「理想」という日本語からは少しずれている。同様に数学(もしくは幾何)でよく現れる単語として「virtual」がある。「仮想」と訳されることが多い。これも辞書をみてみると1 (名目上または厳密にはそうではないが)実質上の, 事実上の 2 〘コンピュータ〙 a. 仮想の, バーチャルな, コンピュータによって作られる b. コンピュータ上の交信による. 3 〘光学〙 虚の となる。最初にでてくるのは実質上の、事実上の、である。テニスで勝負を決めるブレークポイントを「this is a virtual match point」と言ったりする。本当はそこでブレークしても、次にキープしなければ勝てないけれど「実質的に」マッチポイントなのだ。「仮想」マッチポイントとはだいぶ違う。よく群論や幾何で性質Pに対して、「virtually P」という。「仮想P」と訳される。これは、有限で抑えられる操作(通常は有限指数部分群や有限被覆をとる)ののち、性質Pが満たされるの意味である。どう考えても「仮想」ではなく「実質上」のほうが近いが「仮想」が訳語として広まっている。同様に「virtual reality」は「仮想現実」と訳されることが多いが、おそらく「実質的に現実と感じられるもの」のほうが近いのではないかと思う。日本語と英語は異なる文化背景のもとに生まれた異なる言語である。それゆえに言葉と言葉にぴったりな対応はない。単語の対応その他、言語的な距離の大きさゆえに学習に困難がある。しかし同時に、大きく異なるからこそ自分の視点を広げてくれるものでもある。英単語を辞書で調べると通常いくつか異なる日本語の単語が載っている。それが一つの英単語に対応している。列挙される日本語を眺めながら、僕はちょっと数学的な感じで最近は楽しんでいる。"意味の空間"を想像し、その意味の空間の上で列挙される日本語の張る空間を考える(線形空間的な)。それがその単語の"意味"の空間である。もちろん多くの"意味"は線形独立ではないだろうし、そもそも意味の空間は線形ではないだろう。それでも一つの単語の張る部分空間を考えると楽しい。「enjoy」という単語が数学では「(良い構造などを)持つ」の意味で使われるが、「持つ」とこれまで自分が感じていた「enjoy」の間につながりが見えたら、ちょっと自分の言葉が豊かになった感じがしないだろうか?単語の張る部分空間全体が、その単語の意味になることはほぼなく、実際にはその部分空間のとある部分領域がその単語の意味として使われている。その部分領域は、人によって時代によってたゆたっている。意味の空間の中でふわふわと浮いている多数の単語がいて、自分が新しい単語を知ると、他の単語同士の関わりや、今まで見えなかった軸や次元が見えた感じがしたりして、楽しい(この感覚がわかりうるのは数学を知っている人だけ?)。数学は「ものの見方」の学問なんですよ。とよく僕は説明するが、実際にはこんなことを考えている。後半はあまり伝わらない気もするが、まあそれでもよいのだ。僕は楽しいから。

2023年7月1日土曜日

大学教育はどれくらい丁寧であるべきか?

担当する科目の巡り合わせで久しぶりに「演習科目」を担当した。
5年前に設計した演習授業のスタイルを用いた。
毎週問題を配布し、1週間か2週間後にほぼ全く同じ問題からなる小テストを行う。
幸運にもAIなどについて、特に対策のいらない仕組みである。

学生から要望があった「解答案を配布してほしい」。
小テストのあとであっても「解答案は一切作らず、学生には配布しない」
授業設計時にそう決めていた。

コロナ禍で、コミュニケーションが十分に取れなかった間に随分僕は丸くなり、今では(コロナ前に比較すると)懇切丁寧、学生の要望になるべく(当社比)応えようという考えも持ち合わせていた。

4月の段階ではAIとの在り方などに思考をとられており、5年前の授業設計時に考えたことなどについて十分に想いを巡らせてはいなかった。学生から解答案を求められてようやく授業設計当時の僕と話をしてみた。すると

「君たちはいつ、答えのない世界で戦う準備をするの?」

と、まっすぐな声で言われた。
東工大は理系の大学である。学生は将来、なにかしらの科学、技術を身につけ、誰も解決したことのない、答えを知らない課題や問題に貢献することを「仕事」とすることが期待されている。そこに誰かが作ってくれた「解答案」はない。

高校までの数学は少々のごまかしがあることもあり、また成長過程として必要なこともあり「誰かに正しさを確かめてもらう」。しかしそれが行きすぎて、多数の問題の解答法を"覚えて"やりすごすという「パターン認識」でテストの点数をあげるスタイルをとる人が一定数でてくる。パターンを覚えて新しい問題に取り組んでいくことは学習の段階で決して悪いことではないが行き過ぎると、昨今の"AIのような思考"になってしまう。人間は少し違った思考ができる。

大学1年生の数学は、ある程度「自分で正しさを確かめられる」領域まで進む。自分自身で論理を確かめ正しいことを自ら確認できる、というと少し言い過ぎの感もあるが、すくなくとも「そこ」を目指していく態度をみせるのが大学数学である。

だからこそ「解答案は配布しない」のだ。
自分の答案が正しいか否かは、自分で確かめてほしいのである。

いきなりそんなことを言われたら大変なのは知っている。でも君たちには周りに友人がいて、先輩がいて、そして教員がいるのだ。困ったら聞いてみれば良い。授業中にはTAさんや僕が巡回して「質問し放題」なのである。僕は質問されたら解答も含めて全て答えることにしている。これまでの想いと矛盾するようだが、受け身で何もしないで解答が与えられる世界から、行動したら(ほぼ解答案のような)ヒントが与えられる世界へと一歩進んでいる。そうして、いつか誰も答えを知らない世界へと向かう準備をしてほしい。

最近、"大学授業の商品化"のような議論を目にする。商品にするならば、学生の評価をあげなければならないだろう。実はそれは(少なくとも現状は)あまり難しいことではない。懇切丁寧、わかりやすく説明して、難しいことには触れないでおいて、演習問題には学生の望み通りに丁寧な解説をつけて、学生が頑張らなくてもわかった気分になるようにして、成績評価を"あまあま"にして、それでちょっと親しみやすい雰囲気でいれば、学生の評価はいくらでも稼げる。

でもさ、それは優しいようで、「成長する機会を奪って」はいないのかい?
少なくとも僕は、いつか答えのない世界で君が世界で初めて見つけた「答え」がみたい。
だから、答えはあげない、あげられない。ごめんよ。

2023年4月12日水曜日

新入生へ(ChatGPTなどについて)

宣言する。僕は授業でChatGPTを使い倒す。
多くの大学でChatGPTを禁止する流れがあるのは知ってる。
でも、僕は授業で使うし、みなさんにもどしどし使って欲しい。

禁止される理由は「ChatGPTを使うと探索力や思考力が鍛えられない」が最も多い。僕は疑問だ。そう言った人たちが本当にChatGPTを実際に使い、その可能性を"探索"し、そしてその後の未来について"思考"したのかと。

個人的な実感としては、ChatGPTをはじめとするAIはやがて当たり前になり、AIをいかに使いこなすか?が重要な能力になると思う。いま、ChatGPTを使うことは「ズル」と言われるかもしれない。でも、近い将来その「ズル」とされた、"AIを使う能力"がとても大事になる。ChatGPTなどの技術を少しでもたくさん使い、その特性を理解し、いかに有効に使うかを考えて欲しい。一つでも多くの質問をChatGPTに投げかけて欲しい。使えばわかると思うけど、ChatGPTは曖昧な質問にはあまり良い答えを返さない。「問いを立てる力」が要求される。ChatGPTを使うと考えなくなるなんて、とんでもない意見だと僕は思う。

一部の宿題や課題は一瞬で終わる。それでいい。本当に意味のあると思う課題を自ら選び、そこに時間や労力を注いで欲しい。なんでやるかもわからないような、AIで一瞬で終わる課題を出してきた教員が悪い。大丈夫、ChatGPTでやったかどうかなんて絶対わからない。

そうやって時間に余裕ができたら、その時間で「やりたいこと」をやって欲しい。
もしやりたいことが見つからないなら、色々試してみることだ。
個人的なオススメは、「めちゃめちゃ効率の悪いこと」をやること。

自転車で日本一周してみたり、
江戸の科学者を調べて詳しくなってみたり、
数学の定理一つ一つの証明を理解して進んでみたり、
演劇をやってみたり。

AIで効率化して生まれた時間で、「無駄なこと」をやってほしい。
効率的で機械のような人間は必要なくなるから。
機械がもう"機械のような人"よりもずっと優秀になる時代が目の前に迫っている。

人間っていうのは非効率的で、めんどくさくて、無駄な生き物だと思う。
そして、だからこそ生きた人間というのは魅力的なんだと思う。
効率が求められる「つまらない仕事」をちゃっちゃとAIで片付けて、"よくわからないけどなんか面白そうなこと"をやってみて欲しい。無駄なことが「あなた自身」を作り、それがこれからの時代を生き抜く力になる。と、僕は勝手に信じている。

もちろんこれは、たった一人の個人的な"思考"だ。取るも取らぬも、自分で考えてくれ。
ChatGPTの出力を採用するかどうかも、僕の話を聞くかどうかも全部、あなた次第だ。

2023年3月31日金曜日

朱夏時代

三崎にマグロを食べに行った。
どうやら桜の名所らしく、たくさんの桜の木。
どれも早咲きとのことで早春にも関わらず、すでに桜はほとんど散っていた。
期間を決めてしまったのか、駅前では「桜まつり」。
閑散としていたが、出店が葉桜の下で焼きとうもろこしやマグロ、そしてお酒を売っていた。

「先週までは大賑わいだったんだけどね!!」
陽気なおばちゃんに惹かれて、ポキ丼屋に入る。
三崎のマグロをハワイアンにして食べた。
ハワイと三崎の妙なミスマッチが、閑散とお祭りのミスマッチと合っていた。

特に目的地も決めない旅(いつもどおり)。
少し距離があったが港まで行ってみる。
港では多様なマグロが売っていた。
尾の身、しっぽが売っていたので買ってみた。
家でステーキにして食べたが、新感覚でよかった。

港のさらに奥に小さな島があった。自転車を借りて行ってみる。
休憩で立ち寄ったカフェに白黒時代の俳優がびっしり。
映画好きマスターがひたすら喋り続ける店だった。

島からの帰りに渡し船に乗った。
「三崎は北原白秋とゆかりがあるんですよ。白秋の名前の由来をお話ししても?」
静かな調子で話しかけてきた。
「中国の古事では、人生を春夏秋冬に分けていて、春夏秋冬それぞれに色があるそうです。春の色はわかりますか?」
何人かいた乗客に尋ねてきた。しばし経って誰かが
「青ですか?青春?」
「その通りです。実は、同様に夏、秋、冬にも色があります。夏は赤、朱色で朱夏。そして、秋は白、白秋です。北原白秋の名前はここからきているそうです。そして冬は黒,玄冬と言います。現代の年齢だと、若く青々とした青春が25歳くらいまで、その後人生が最も輝くとされる朱夏が60歳くらいまでとされているようです。そしてその後の終末期、冬の時代への向かう秋が75歳くらいまで」

みんなが感心している空気を感じると
「あ、いや私もこないだラジオでこの話を聞いたんですけど」
とおちゃらける。
「人生の折り返しをすぎたところを白秋という。白秋時代は青春、朱夏時代のようなエネルギーはないが、重ねた年輪による成熟した精神と、まだある程度自由に動く身体がある人生における実りの時代である。北原白秋は、白秋時代のような詩や物語を作りたいと、白秋と名乗ったそうです」

良いお話しだった。
朱夏時代、人生がもっとも燃える時代を僕はいま、生きている。
僕はマグロも赤身が好きである。

朱夏時代の1ページ。

2022年3月21日月曜日

数学と演劇4

 「普及」とは、なんと難しいのだろうと思っている。
いろいろな人が、いろいろなものを「普及」したいと考えている。
少々「奪い合い」の嫌いがあり、どんな状態が本当に良いのかは、正直わからない。
「数学」の話を、一般向けに数学者がすることは良いことだろう。
同時に、「数学に興味のないひと」が、数学のイベントに参加する理由はないとも思う。
僕も高校生の頃は、数学になんて全く興味がなかった(だから、数学科に行かなかった)。
友人に「数学のイベントに行こう」と言われても、「いや、まじで、なんで?」と返しただろう。
実際には、そんなものに誘ってくる人もいなかった。
数学オリンピックの問題に取り組む人は少しいたが、「変なやつ」と思っていた。
ただ、中学生の頃に見た「やまとなでしこ」というドラマはとても良く覚えていた。
主人公が数学者で、「数学の議論」の描写がずっと心に残っていた。
でも、おそらく「やまとなでしこ」は数学を推そうなんて考えていない。
「やまとなでしこ」を知っている人でも、主人公が数学者であったことを覚えていない人もいるくらいだ。
数学は「おまけ」だった。
そして、だからこそ良い印象で、数学が心に残ったのだと思う。
きっと、数学を「おまけ」にしたらいいんだ、と割と本気で信じている。
おまけってのは、よくわからないけど集めたくなるものだ。
舞台に出演するこいつは、実は数学者らしい?なんで舞台に?
と、思ってもらえたら実は僕の企みは成功している。
「数学」には、``これくらい''の触れ方が良いと思っている。
そうして数学が、少しだけ心に残っていれば
「実はさ、数学には、証明には、物語があったりするよ」などと
誰かに聞いたとき興味を持てたりするんじゃないかと思っている。

数学と演劇3

DULL-COLORED POPさんの『プルーフ/証明』を観劇して、演出の谷賢一さんとアフタートークをしました。
 https://www.youtube.com/watch?v=JKAMUvyaYPc

とても楽しい対談だったのですが、
そこでお話しした「センス」について少し書いておきたい。

演劇にはたくさんセンスが必要なことは想像にかたくない。
センスの伝え方はとても難しいとのことだった。
そして、数学にもセンスが問われる場面が多々ある。
アフタートークでは、分野や問題の選択にセンスがあるという話をした。
加えて、議論にもセンスがあるようで、僕が学生の時、師匠から
「その議論は筋が悪い」
という指摘を何度も受けた。
最初は、どうして筋が悪いかもわからなかったが、繰り返し繰り返し伝えられることで少しずつわかってくるものがあった。
「センス」は成長する。

僕は「センスの悪い人」である。
幼い頃から疑いようのない事実であるが(悲しい)、
一方で数学や囲碁は「感覚派」である。
なりたくて感覚派になったわけではなく、
思考力などが足りず「それしかなかった」のである。

数学は、証明は物語であるという人がいる。
個人的には結構よくわかる。
僕は「かっこいい」物語が好きで、同様に「かっこいい」証明が好きである。
演劇はライブで生であるから、いいものに出会えると「肌に残る」。
人の感覚は不思議なもので、使わないと鈍る。
「かっこいい」が肌に残っていると、「かっこいい」に敏感になって、証明に隠れた「かっこいい」に気づける。
かっこいいに気づくと、証明が鮮明に頭に残る。
ざっくり「頭の良さ」で、僕は戦いきれないから、こんな外からの刺激も使って数学をやっているのである。

2022年2月24日木曜日

数学と演劇2

 演劇を学んだら良いのではないか?
そう思い立ったのは、東北大学で「サイエンスカフェ」をやる際に少し気合を入れて準備したこと、また「研究所紹介ビデオ」に出演したのもきっかけだった。
当初は、具体的な効果や目標も定まってはおらず"あやふや"であった。
昨今の「選択と集中」への批判に似た感覚であるが、"先の見えない"研究テーマを選んでいくことが、数学者、研究者として自分の生きる道であると信じていたので、その発想が数学や科学を飛び出すことを、単純に面白いと感じた。
「面白い」とは感じても、そこに飛び込む数学者は(少なくとも日本には)存在しないであろう。誰もやらないならやってみよう。
動き出したのはおおよそ3年半前、東京に戻ってきたタイミングだった。
暇を見つけてはレッスン場にお邪魔し、稽古をした。
一回り以上年下の人も多い中、ありがたいことに死ぬほど「ダメ出し」された。
(ただ、数学その他、"独学"ばかりだった僕は、叱責の有り難さを知っていた)

研究発表や、一般向け講演でそれなりに評価してもらっていた自信は、粉々に砕け散った。
声も出ない、滑舌も悪い、伝わらない。散々だった。
現状でも"まだまだ"であるが、当初に比べると格段に言葉を発するのが上手になっている。これは訓練で向上する技術であることがわかった。

研究者と発表

現代の研究者は、「自らの研究を発表し人に伝える」ことが求められる。多くの人が、少ないポジションを奪い合う状況では、この「発表能力」が幸か不幸か、とても重要である。
さらには、日本で最初に発明された技術が、うまく伝わらず、数年後他国の"発表上手"に再発見され、結局"奪われてしまった"などという話も耳にする。

研究者にコミュニケーション能力をと謳われて久しいが、コミュニケーション能力には2種類ある。
・他人に合わせて自分を殺し、その場を収める能力
・自分自身を相手に理解してもらう能力
「コミュニケーション能力」は前者を指す場合が多いが、研究者に必要なのは主に後者である(と信じている)。この点において、統計をとったわけではないが"ある程度レベルの高い理系"の人で、苦手と感じている人が多いと思う。もちろん、生まれつき上手な人もたくさんいる。
教育というのは才能を分割し、苦手な人にも使えるように教えるものだと思っている。
演劇の手法の中に、使えるものがたくさんある。ここでは詳細は省略するが、いつか「科学者のための演劇」のような授業ができたらいいなと考えている。