2019年5月25日土曜日

頑張る

今日から2週間フランスからお客さんが来る。 前に彼を訪ねた時は 朝数学、昼数学、夜はBARで数学だった。 海外にいる高揚感で乗り切った。 日本でも同じだろうか。どうしよう。 エネルギーが、必要だ! 動画があった。 うむ。彼はちょっとかっこいいんだよな。 頑張るぜ。

2019年5月19日日曜日

新しい時代

新しい時代だ
意気揚々と、人々は唄う
ぼくも、何の気なしに少し楽しい気分になっていた。

時代が変わり、少し経ち、気づく。

大学そばの、弁当の美味しいお肉屋さんが
家のそばの、商店街の一角にあった文具屋さんが
4月いっぱいで、閉店していた。

新しい時代、か
ぼくはゆっくり、呟いた。





2019年5月13日月曜日

呟き

もしかしたら、それなりに呟くかもしれません。
毎回、ここに写すかはわかりませんが

10年くらい前は叫びたかった。
呟くなんて、そんなぬるい事できるか!と思っていた。

今は、呟ける気がする。
歳をとったのかもしれない。
でも、かつての叫びより響く、呟きがあるかもしれないと、思うようにも、なっている。


いろいろだ。

2019年5月4日土曜日

令和

年号が発表された時、僕は
これいーわー、これいはいい
と思った。

最近は、エルゴード理論を勉強している。
僕は、エルゴード理論を物事を調和させるのに使いたい。
もう少しいうと、「調和」が望む状態になるような仕組みを考えていきたいのだ。

ずっと、自然がいいと思っていた。
何もしないが、一番だと思っていた。
そっとしておけば、調和に向かい、良い状態になると思っていた。

どうやら、そうでもないらしい。
調和はややもすると、安易に流れがちだ。
手近にある、楽な答えに落ち着きがちだ。

その"上"に、本当に良い調和があるかもしれない。
僕がエルゴード理論を研究しているのは
本当の意味でのよい調和へ向かう、
そんな自然を見出したいから。

命令、法令、指令。
令の字には、力強さがある。
安易に流れない、力強さの先にある、調和へ。

令和。

僕が英語にするなら
Law of Harmony

これいーわー。

ずいぶん長いこと書いてきたブログですが、
ひとまず、「毎週末書く」しばりをやめようと思います。

思いついた時に、思いついたことを書くことにします。
たぶん、しばし、休みます。

れいわーれいわー(でわでわ)。

2019年3月23日土曜日

名人(川端康成)

川端康成著「名人」を読んだ。
最後の名人と呼ばれている秀哉名人の引退碁の観戦記である。
ネタバレ等が嫌な人はすみませんが内容にも多分に触れます。



今では、一つの大会の優勝者と言った意味で
「名人」の称号は使われる。

秀哉名人までの「名人」は、相撲の横綱と似た「地位」であり、
一度、その座に着けば引退するまで、失われない「名前」であった。
名人は負けることは許されず、ほとんど対局しないのが一般的。
その中で、秀哉名人は多くの棋譜を残した。
負けることの許されない名人には特権もあった。
対局を途中で打ち掛けにして、後日へ持ち越す権利があったと言う。
囲碁に、持ち時間などと言う考え方がなかった時代の話だ。

その内に、時間制が導入され、囲碁は徐々に「管理」されるようになる。
秀哉名人の引退碁には持ち時間があった。
時代の流れであろう。
その持ち時間が40時間と言う膨大な時間であったことは
まさに、ここが、分かれ目である証拠とも言える。

それでも、名人は対局の最中、
打ち掛けのタイミングであったり
再開の日程であったり
様々な「我儘」を言った。

対局相手の大竹七段は断固として名人の我儘を拒否した。
立場は下であっても、名人に「ルールを守る」ことを徹底して求めた。
負けることを許されない、数多の特権を持つ、「名人」として生きた秀哉名人は
随所に、芸の道を極める人、極道を感じさせる行いが見て取れた。
その一つ一つを、大竹七段は徹頭徹尾、正論で退けた。

正論が、名人の極道としての生き方に打ち勝った、
勝たざるを得なくなった、
その変遷を見ているようであった。
名人と同世代の大人たちの、寂しさも描かれた。
川端康成は彼らの寂しさを理解し、
どちらかと言えば名人を支持しながらも
いつまでも正論をつく大竹七段のこともまた、認めていた。
双方を理解し、また、双方から慕われている人間として
いざこざの仲裁に立つこともあった。

引退碁に秀哉名人は負けた。
大竹七段の盤外の策略を、醜く、一局の碁を汚す行為とみた名人が
憤慨し、その直後に悪手を放ち、碁は崩れた。
大竹七段は封じ手にコウダテの様な手を選んだのだ。
名人に認められた「特権」をルールを逆手に取り
若い大竹七段が利用したと言われたら仕方のない様な行いだ。

名人の憤慨は誰にも気づかれなかった。
のちに、立会人と川端康成にのみ語られたものであった。

最後の名人は、ルールに負けた様だと、思った。
それまではずっと、名人そのものがルールだった。

この本を読みながら、
最近、みんなキレイだよな、と
ずっと考えていたことを思い出した。
「正しい」ことがあまりに力を持っている様に感じる。

悪いことではないのだけれど、
手頃な正解で思考が止まって見えることが、ある。

何が正しいのかわからず、悩み、考え、揺らぎ、
それをずっと続けた先に、ぼんやりと見えてくる
そんな答えが、あるだろう。
揺らぎ、掴みきれていない状態は弱い。
ずっと手前の「正解っぽいやつ」で止まっている人が
その「正解っぽいやつ」を振りかざして
その、ずっと先の答えに繋がる思考に入り、揺れている人を、
刹那的に弱くなっている人を
打ちのめす場面が散見される。

すっごく掘ると、結構いろいろ出てくるぜ、と
そう教えてくれるのが数学かもしれないと
そんな事を思ったりもした。

2019年3月16日土曜日

銭湯

家のそばに、古い、それはもう、古い、オンボロの銭湯がある。
大変気に入っている。
銭湯からの帰り道は、どうしてあんなに気持ちいいのだろう。

大学一年の時は寮に住んでいた。
部屋にお風呂はなく、共用棟まで行って共同風呂に入る毎日。
あれも、気持ちよかった。

時間のことだけを考えたら、すごく非効率なんだろうけど。
銭湯からの帰り道に見えるもの、感じるものというのは
大切なんだろうなと思う。

これを、大切にしたいんだろうなと、思う。

2019年2月23日土曜日

好き

少し前の記事で、苦手なものについて考えた。
こんどは好きなものについて考えてみた。
そのうち、好きと言う言葉について
考えるようになった。

好きです。

そう言われたら、ほとんどの人が
それは、どういう「好き」か
考えるだろう。

たくさんの日本語がある中で
これほど「本当の意味」について
たくさんの人が
思いを巡らせた言葉はあるだろうか。
だれもが、その意味は、
一つではないことを
知っている。

人間として
友達として
恋人として
仲間として
家族として

きっと他にもたくさん
好きになる。

一つの意味を勝手に想像して
そう、と決めてしまうことは
まれであろう。

「好き」だけでなくて、
一つ一つの言葉に対して
こんな風に、たくさんの意味を想像して
しっくりくる、意味を探す。
そんなふうにすれば
世界が違って見えるような気がしてきた。

物事の一つの側面を見たとしても
それを全てだと思わず、
たくさんの可能性を探す。
なんだかとても数学的、科学的だな
と、結局自分の好きなように考えてしまう。
こんな、好きもある。

そういえば、数学の問題をあれこれ考える様は
片思いのようだと、
そんな話も、したっけな。