当然のように文章が書けません。
いま、書けないのは「とても良いこと」だと思い始めました。
数学はぼちぼちできるので、できることをやっています。
2020年5月16日土曜日
2020年5月9日土曜日
初めてのオンライン授業
多くの人が初めてオンライン授業を受けている、している。
僕も初めてで大変だ、と思っていたのだけれど、ふと思い出した。
18年前、2002年、僕は中学3年生。
インターネットが世の中に普及し始めた頃、
思い返せば僕は「オンライン授業」を受けていた。
中高は陸上部で走高跳をやっていた。
弱小部で顧問の先生はほとんど練習に来ない。
入部当初はよかった。先輩や、たまーにやってくる顧問の先生のアドバイスが役に立った。
記録も少しずつ伸びていった。
ところが中学3年生になると(中高一貫にもかかわらず)、走高跳をやる先輩はいなくなり、稀にやってくる顧問の先生も専門は投擲で、レベルが上がると頼りにならなくなった。
記録も伸びなくなった。
そんなとき、僕はインターネットを知った。
当時のネットはビデオ通話なぞ夢のまた夢で、「メール」と「ホームページ」がようやく広まった程度(調べたらネット普及率65%くらいだったらしい)。
今では危ない人がたくさんいるネットの世界は、「新しい物好き」の魅力溢れる人たちであふれていた。
面白いテキストサイトがたくさんあったし、まだ「検索対策」があまり広まっておらず検索結果でトップのサイトはどれも面白かった。
僕はとある大学で走高跳を専門に研究している大学院生さんのホームページを見つけた。
「学生の指導をしています。興味がある方はメールをください」
僕は恐る恐る、メールを送った。
「中学3年生です。指導者がいません。走高跳を教えて欲しいです」
メールで技術的なことに関する質問や課題を送ると
練習メニューや、新しい練習方法などを教えてくれた。
それを実践し、また質問してアドバイスをもらう日々。
練習中は一人だったから、自分で練習の意味や効果をずっと考えていた。
アドバイスの意味も試行錯誤で自分なりに解釈していった。
意味が「わかる」瞬間がたまに訪れる。とても、楽しかった。
そのうちに僕はHTMLを覚え、自分のホームページを作った。
練習内容と感想を書き溜めて、メールでお知らせした。
褒めてもらえると思っていたのに
「練習への感想が甘い。ふざけているように見える」
怒られた。でも、本当にその通りで、反省した。
そんなやりとりが1年ほど続いた後のGW、高校初めての大会で僕は自己ベストを大きく更新した。
メールで知らせると、まるで自分のことのように喜んでくれた。
嬉しかった。
メールだけであったけど、あれはきっと、オンライン授業だったと思う。
その後すぐ、僕は怪我をして、走高跳を断念せざるをえなくなった。
やりとりは終わってしまった。
それでも、一度も会ったことのない先生とのメール、
それを元にした練習の日々は本当に楽しかった。結構結果も出た。
走高跳をやっててよかったなと思うのは、自己ベストを出した日が
「人生で一番高く跳んだ日」
になることだ。響きが好きだ。
だからGWはいつも気分がいい。それは今年だって変わらない。
オンライン授業が僕にくれたもの。
技術が発展して色々できる。オンラインでも、僕でも
なにか、できるかもしれないと、思わせてくれた、思い出。
がんばります。
僕も初めてで大変だ、と思っていたのだけれど、ふと思い出した。
18年前、2002年、僕は中学3年生。
インターネットが世の中に普及し始めた頃、
思い返せば僕は「オンライン授業」を受けていた。
中高は陸上部で走高跳をやっていた。
弱小部で顧問の先生はほとんど練習に来ない。
入部当初はよかった。先輩や、たまーにやってくる顧問の先生のアドバイスが役に立った。
記録も少しずつ伸びていった。
ところが中学3年生になると(中高一貫にもかかわらず)、走高跳をやる先輩はいなくなり、稀にやってくる顧問の先生も専門は投擲で、レベルが上がると頼りにならなくなった。
記録も伸びなくなった。
そんなとき、僕はインターネットを知った。
当時のネットはビデオ通話なぞ夢のまた夢で、「メール」と「ホームページ」がようやく広まった程度(調べたらネット普及率65%くらいだったらしい)。
今では危ない人がたくさんいるネットの世界は、「新しい物好き」の魅力溢れる人たちであふれていた。
面白いテキストサイトがたくさんあったし、まだ「検索対策」があまり広まっておらず検索結果でトップのサイトはどれも面白かった。
僕はとある大学で走高跳を専門に研究している大学院生さんのホームページを見つけた。
「学生の指導をしています。興味がある方はメールをください」
僕は恐る恐る、メールを送った。
「中学3年生です。指導者がいません。走高跳を教えて欲しいです」
メールで技術的なことに関する質問や課題を送ると
練習メニューや、新しい練習方法などを教えてくれた。
それを実践し、また質問してアドバイスをもらう日々。
練習中は一人だったから、自分で練習の意味や効果をずっと考えていた。
アドバイスの意味も試行錯誤で自分なりに解釈していった。
意味が「わかる」瞬間がたまに訪れる。とても、楽しかった。
そのうちに僕はHTMLを覚え、自分のホームページを作った。
練習内容と感想を書き溜めて、メールでお知らせした。
褒めてもらえると思っていたのに
「練習への感想が甘い。ふざけているように見える」
怒られた。でも、本当にその通りで、反省した。
そんなやりとりが1年ほど続いた後のGW、高校初めての大会で僕は自己ベストを大きく更新した。
メールで知らせると、まるで自分のことのように喜んでくれた。
嬉しかった。
メールだけであったけど、あれはきっと、オンライン授業だったと思う。
その後すぐ、僕は怪我をして、走高跳を断念せざるをえなくなった。
やりとりは終わってしまった。
それでも、一度も会ったことのない先生とのメール、
それを元にした練習の日々は本当に楽しかった。結構結果も出た。
走高跳をやっててよかったなと思うのは、自己ベストを出した日が
「人生で一番高く跳んだ日」
になることだ。響きが好きだ。
だからGWはいつも気分がいい。それは今年だって変わらない。
オンライン授業が僕にくれたもの。
技術が発展して色々できる。オンラインでも、僕でも
なにか、できるかもしれないと、思わせてくれた、思い出。
がんばります。
2020年5月2日土曜日
不必
不要不急と言う言葉が叫ばれて久しい。
必要なもの、というのは何か?も考えたいが、ひとまず置いておきます。
現状僕がインターネットに対して感じている感覚をまとめておきます。
インターネットでは、オンラインでは"必要な"情報にしか触れられない。
「""」をつけた。
オンラインショッピングでは、目的の商品に一発でたどり着ける。
お店では目的の商品が見つからず、色々物色しているうちに"必要でない"ものを手に取る。
文献を探すにしても、検索してお目当の文献があればおしまいだ。
図書館に行けば本来の目的には"不要な"文献にたくさん触れる。
オンラインで、"必要のないもの"に触れ続けるのは難しい。
世界のセミナーがオンラインで開催されている。
いくつか参加しているが、自分の研究と直接の関係を見出せないオンラインセミナーに参加するのは難しい。
僕の体感ではほとんど不可能だと思う。
研究集会で、自分の研究と直接関係のない話を聞くのも"必要でない"。
そう感じながらも、お世話になってる先輩だったり、
たまたま巡り合わせで一緒に飲んだ研究者さんだという理由で話を聞いてみる。
僕だけかもしれない。けれど、「その場にいれば」こんな遊びがとても楽しい。
実を言うと、僕が最近よく研究している「タイヒミュラー空間」(宇宙際ではないです)
はその大部分を、そんな「耳学問」で学んだ。
初めは自分の研究との関連が見出せず、ただなんとなく聞いていた
"必要のない"話が、いつしか自分の研究の中心テーマになった。
そうして、教育に思いを馳せる。
教育現場で習うことは、そのほとんどが"必要のない"ことだ。
喫緊の課題と感じて学んでいる人は、ほとんどいない(社会人学生さんはそう、かも?)。
本来は、それでいい。僕も長いことそうやって、なんとなく学んだ。
けど、今はオンラインだ。
"必要でない"ものに触れるのに、それをオンラインでやることにおける課題は多い。
一つ、受講側へアドバイスをするならば、なるべく対話をするといいと思う。
大勢が参加する授業で発言をすることは、恥ずかしいかもしれない。
けれど、そこは「がんばりどころ」だ。
何回か勇気を出して発言すればきっとすぐ慣れる。
そして、もうひとつ。
授業でガンガン発言したとして「調子に乗ってる。うざい。」などのイメージをもたれるかもしれないが、
積極的に授業に参加している人間に対してそんな感想を持つ相手とは、そもそも付き合わない方がいい。
大丈夫、きっと仲間はいるよ。
とにかく、何もせずに見ているだけならオンライン授業は時間と目の浪費に近い。
(最近、僕はとても目が辛い)
自分で教科書や参考書を読んだ方が、情報を集め、知識を得るだけならずっと効果的だ。
自分の声で質問をすれば"無駄な知識"に触れる際におそらく大切な「肉体的な感覚」を少しでも得られるように思う。
そうして得た"無駄な知識"がどうして必要なのか。
なんとなく伝わっていると嬉しいけれど、
ちょっと長くなったので、またの機会に詳しく。
必要なもの、というのは何か?も考えたいが、ひとまず置いておきます。
現状僕がインターネットに対して感じている感覚をまとめておきます。
インターネットでは、オンラインでは"必要な"情報にしか触れられない。
「""」をつけた。
オンラインショッピングでは、目的の商品に一発でたどり着ける。
お店では目的の商品が見つからず、色々物色しているうちに"必要でない"ものを手に取る。
文献を探すにしても、検索してお目当の文献があればおしまいだ。
図書館に行けば本来の目的には"不要な"文献にたくさん触れる。
オンラインで、"必要のないもの"に触れ続けるのは難しい。
世界のセミナーがオンラインで開催されている。
いくつか参加しているが、自分の研究と直接の関係を見出せないオンラインセミナーに参加するのは難しい。
僕の体感ではほとんど不可能だと思う。
研究集会で、自分の研究と直接関係のない話を聞くのも"必要でない"。
そう感じながらも、お世話になってる先輩だったり、
たまたま巡り合わせで一緒に飲んだ研究者さんだという理由で話を聞いてみる。
僕だけかもしれない。けれど、「その場にいれば」こんな遊びがとても楽しい。
実を言うと、僕が最近よく研究している「タイヒミュラー空間」(宇宙際ではないです)
はその大部分を、そんな「耳学問」で学んだ。
初めは自分の研究との関連が見出せず、ただなんとなく聞いていた
"必要のない"話が、いつしか自分の研究の中心テーマになった。
そうして、教育に思いを馳せる。
教育現場で習うことは、そのほとんどが"必要のない"ことだ。
喫緊の課題と感じて学んでいる人は、ほとんどいない(社会人学生さんはそう、かも?)。
本来は、それでいい。僕も長いことそうやって、なんとなく学んだ。
けど、今はオンラインだ。
"必要でない"ものに触れるのに、それをオンラインでやることにおける課題は多い。
一つ、受講側へアドバイスをするならば、なるべく対話をするといいと思う。
大勢が参加する授業で発言をすることは、恥ずかしいかもしれない。
けれど、そこは「がんばりどころ」だ。
何回か勇気を出して発言すればきっとすぐ慣れる。
そして、もうひとつ。
授業でガンガン発言したとして「調子に乗ってる。うざい。」などのイメージをもたれるかもしれないが、
積極的に授業に参加している人間に対してそんな感想を持つ相手とは、そもそも付き合わない方がいい。
大丈夫、きっと仲間はいるよ。
とにかく、何もせずに見ているだけならオンライン授業は時間と目の浪費に近い。
(最近、僕はとても目が辛い)
自分で教科書や参考書を読んだ方が、情報を集め、知識を得るだけならずっと効果的だ。
自分の声で質問をすれば"無駄な知識"に触れる際におそらく大切な「肉体的な感覚」を少しでも得られるように思う。
そうして得た"無駄な知識"がどうして必要なのか。
なんとなく伝わっていると嬉しいけれど、
ちょっと長くなったので、またの機会に詳しく。
2020年4月28日火曜日
無題
文章が書けない。
誰にも言われなくても、あんなに書いていた文章が、書けない。
別に仕事でもなんでもないし、書かないと誰かが困るわけでもないのだけれど。
でてこない。
理由は知っている。四角い画面を見過ぎなのだ。
そんなに、小さな画面ばっかりみなさんな。
外をみてみい。世界は広がってるさ。
って、言いたい!言いたいのだ!ずっと言ってきたのだ!
無題!
誰にも言われなくても、あんなに書いていた文章が、書けない。
別に仕事でもなんでもないし、書かないと誰かが困るわけでもないのだけれど。
でてこない。
理由は知っている。四角い画面を見過ぎなのだ。
そんなに、小さな画面ばっかりみなさんな。
外をみてみい。世界は広がってるさ。
って、言いたい!言いたいのだ!ずっと言ってきたのだ!
無題!
2020年4月19日日曜日
科学と文化
或る日「突然」失われた日常が戻ることはないだろう。
戻るとしたら、徐々に、ゆっくり、少しずつ。時間をかけて。
僕個人の予想だと、ながーい時間がかかる。
その時に、何を戻し、何を変えるべきか。
科学と文化が協力して、考えたら素敵だ。
科学は「何ができるか」を
文化は「何をすべきか」を
それぞれ提案して。
何ができるかが分からなければ、何をすべきか、分からない。
何をすべきかが分からなければ、何を作ればいいか、分からない。
科学が、文化が、芸術が、大切に扱われるべきだと言うならば
こういう時に進むべき「未来」を提示して見せる必要がないか?
オンライン技術はほとんど全部、外国産で
アーティストや芸術家は、なんか「文句」と「いいね」ばっかり集めてる。
もちろん、全てがそうではないだろうし、難しい、苦しいのもわかるけど。
だいたいは、残念ながら。
かく言う自分も、なんにもない。
ただ。
数学は、科学と文化の中間地点にいるはずだ。
数学は科学の基礎である。
同時に、数学の研究は文化的だ。
「正しさ」の感覚。
先が見えない時に「正しさ」を嗅ぎ分ける嗅覚。
きっと役に立つはずだ。
ひとまず目の前の課題として、
どうやって学生を学校に来れるようにするかを考えている。
半分?1/10? 一部だけでも、なるべく早く教室で授業をするための方法を考えている。
オンラインと対面の両立が必要だ。黒板を中継するための方法、実は大体できている。
この騒ぎは年単位で続くと思っていて、その間、新入生が
入学して一度も大学で授業を受けられない期間が続くのは違うだろう。
いつまでも何もしないわけにはいかない。
「できること」を探していくべきだと思う。
「スペースに余裕がある教室での授業」などは「できること」ではないか?
少なくても「すべきこと」だと僕は思う。
今はまだ早いにしても、社会全体として、どこかで舵を切る必要がある。
「できること」と、「すべきこと」を、きちんと考えて。
一方で、僕たちは大きく学んだこともある。
淀んだ空気はきれいになり、濁っていた川は透明さを取り戻した。
変えられないと思っていたことは、いとも簡単に変わった。
元どおりに戻す必要はないし、正直、戻してはいけないものもたくさんあるだろう。
命についても考える必要があるだろう。
「助けられるはずの命」という言葉を度々目にする。
いずれ失われると。
いま、実際のところは救われた命のほうがずっと、ずっと多いだろう。
命が人間だけのものじゃ、ないならば。地球は少し、きれいになった。
3月の中旬頃に英語で「地球にとってのウイルスが人間であり、コロナはそのワクチンである」というツイートが回ってきた。極論かもしれないけれど、この類の主張が「日本語」で表現されているのが散見されるようになったのは本当に最近だ。
海外がいつでも正しいとは言わない。
僕はこだわって、日本に居座っている。いいところがたくさん、たくさんある。
世界中で、「課題」が浮き彫りになった。
そのほとんどが、「やればできる」ことだったように思う。
考え方の、心の問題だった。
ずっと思っていた。物質的な豊かさはもう限界で、これ以上追い求めても結局苦しくなるばかりではないかと。
一方で、精神的豊かさは大いに、大いに成長の余地がある。
きっと、そういう時間だ。
さあ、世界が、日本が、僕が。
何を考えるか、正直に言えばとても楽しみである。
戻るとしたら、徐々に、ゆっくり、少しずつ。時間をかけて。
僕個人の予想だと、ながーい時間がかかる。
その時に、何を戻し、何を変えるべきか。
科学と文化が協力して、考えたら素敵だ。
科学は「何ができるか」を
文化は「何をすべきか」を
それぞれ提案して。
何ができるかが分からなければ、何をすべきか、分からない。
何をすべきかが分からなければ、何を作ればいいか、分からない。
科学が、文化が、芸術が、大切に扱われるべきだと言うならば
こういう時に進むべき「未来」を提示して見せる必要がないか?
オンライン技術はほとんど全部、外国産で
アーティストや芸術家は、なんか「文句」と「いいね」ばっかり集めてる。
もちろん、全てがそうではないだろうし、難しい、苦しいのもわかるけど。
だいたいは、残念ながら。
かく言う自分も、なんにもない。
ただ。
数学は、科学と文化の中間地点にいるはずだ。
数学は科学の基礎である。
同時に、数学の研究は文化的だ。
「正しさ」の感覚。
先が見えない時に「正しさ」を嗅ぎ分ける嗅覚。
きっと役に立つはずだ。
ひとまず目の前の課題として、
どうやって学生を学校に来れるようにするかを考えている。
半分?1/10? 一部だけでも、なるべく早く教室で授業をするための方法を考えている。
オンラインと対面の両立が必要だ。黒板を中継するための方法、実は大体できている。
この騒ぎは年単位で続くと思っていて、その間、新入生が
入学して一度も大学で授業を受けられない期間が続くのは違うだろう。
いつまでも何もしないわけにはいかない。
「できること」を探していくべきだと思う。
「スペースに余裕がある教室での授業」などは「できること」ではないか?
少なくても「すべきこと」だと僕は思う。
今はまだ早いにしても、社会全体として、どこかで舵を切る必要がある。
「できること」と、「すべきこと」を、きちんと考えて。
一方で、僕たちは大きく学んだこともある。
淀んだ空気はきれいになり、濁っていた川は透明さを取り戻した。
変えられないと思っていたことは、いとも簡単に変わった。
元どおりに戻す必要はないし、正直、戻してはいけないものもたくさんあるだろう。
命についても考える必要があるだろう。
「助けられるはずの命」という言葉を度々目にする。
いずれ失われると。
いま、実際のところは救われた命のほうがずっと、ずっと多いだろう。
命が人間だけのものじゃ、ないならば。地球は少し、きれいになった。
3月の中旬頃に英語で「地球にとってのウイルスが人間であり、コロナはそのワクチンである」というツイートが回ってきた。極論かもしれないけれど、この類の主張が「日本語」で表現されているのが散見されるようになったのは本当に最近だ。
海外がいつでも正しいとは言わない。
僕はこだわって、日本に居座っている。いいところがたくさん、たくさんある。
世界中で、「課題」が浮き彫りになった。
そのほとんどが、「やればできる」ことだったように思う。
考え方の、心の問題だった。
ずっと思っていた。物質的な豊かさはもう限界で、これ以上追い求めても結局苦しくなるばかりではないかと。
一方で、精神的豊かさは大いに、大いに成長の余地がある。
きっと、そういう時間だ。
さあ、世界が、日本が、僕が。
何を考えるか、正直に言えばとても楽しみである。
2020年4月11日土曜日
センス
オシャレが苦手だ。
キライでなく、ニガテ。上手にできない。
どんな服を着れば良いのか?
素敵なインテリアとは?
上手にできない。でも、オシャレなものは素敵だと思う。
カフェによく行くのは、僕のニガテなオシャレをサービスしてもらえるから。
(注:これを書いたのは結構昔です)
そのほか、絵を描いたり、歌を歌ったりするのもニガテ。
面白おかしくお話しするのも得意でない。
だから、僕はずっとセンスがないんだと思っていた。
そして、評価されるものはいつもセンスに溢れてた。
センスがないと思っていた僕は、事あるごとにどこかで小さくなっていた。
だけど。気づいた。
自分のことを、自分で褒めるのは、はしたないけれど。
それでも、聞いて欲しい。
僕には、少しだけ思考のセンスがあった。
思い返すと、最初にそれを意識したのは囲碁を学んだ時だった。
僕は高校時代、1年とすこしだけ囲碁を学んだ。独学で。
そして、アマチュア六段の免状を持っている(頑張った)。
その時に使ったのが、磨かれたのが思考のセンスだった。
囲碁では、その枝分かれの数が、人間の理解の範疇を超えている。
だから、面白い。最近はコンピュータの方が上手だけれど。
全てを理解できない人間が囲碁を打つ際に使うのが、感性だ。
「一目千手」
プロ棋士が一瞬で読む手の数を自らそう評したが、実際はもっと多い。
時と場合によるが「次の3手」くらいは一瞬で見えることも多い。
中盤で150手の可能性があって、「次の3手」が瞬時に読めたら150*149*148で約330万手をみている。
そこから、一つを選んでいる。もちろん全部を見るわけでなく「感性」が教える少ない候補から選ぶ。
思考のセンスが必要だ。
今はすっかり忘れているが、当時はあやふやでつかみどころの無い局面こそに、自信があった。
感性なら負けないと思っていた。
この思考のセンスは囲碁をやることで磨かれたと思っている。
僕は高校時代、偏差値が分からなかった。
偏差値の順番にいい大学だと言われて、さっぱり分からなかった。
理屈は理解しても、分からなかった。
この「さっぱり分からない」と思えたところが、センスだ、と今は思っている。
実際、偏差値は全てではないのだから。それをきちんと感じ取っていた。
その感じ取った何かに、ちゃんと身を委ねたところがエライ(自分で言うやつ)
いま、数学を研究している。
計算能力、証明能力。全然足りない。
テーマ選びのセンスで戦っている。
テストだけなら、僕よりずっと優秀な人がたくさん、たくさんいる。
それでも、数学の研究ではちょっと評価されたりもしている。
果たしていつまでもつのか、どきどきもしている。
この感覚を磨くのに、ひとつ大事だと思っていることがある。
自分で選んで、そしてその選択に身を委ねることだ。
これはかなり、勇気がいる。失敗もする。
なるべく若いうちに、出来るだけ「選択と失敗」を繰り返すといいと思う。
若いうちなら、ほぼノーダメージだ。
確かに傷ついたり、凹んだりするけれど
少し年をとるとわかる、若い時のそれはほとんどノーダメージだ。
と言っても、いま、30代前半。今の僕でもせいぜいプチダメージだ。
どんどんやる気でいる。
多分あと10年もしたら、結構痛いんじゃないかと思っている。
それでもやる気でいるけれど。
自分の理解の範疇を超えた選択のなかから、何かを選ぶ。
そんなセンスがある。ただ、それだけを言いたかっただけなのに、アホみたいに自慢してしまった。
この辺のところは、本当にセンスがない。
キライでなく、ニガテ。上手にできない。
どんな服を着れば良いのか?
素敵なインテリアとは?
上手にできない。でも、オシャレなものは素敵だと思う。
カフェによく行くのは、僕のニガテなオシャレをサービスしてもらえるから。
(注:これを書いたのは結構昔です)
そのほか、絵を描いたり、歌を歌ったりするのもニガテ。
面白おかしくお話しするのも得意でない。
だから、僕はずっとセンスがないんだと思っていた。
そして、評価されるものはいつもセンスに溢れてた。
センスがないと思っていた僕は、事あるごとにどこかで小さくなっていた。
だけど。気づいた。
自分のことを、自分で褒めるのは、はしたないけれど。
それでも、聞いて欲しい。
僕には、少しだけ思考のセンスがあった。
思い返すと、最初にそれを意識したのは囲碁を学んだ時だった。
僕は高校時代、1年とすこしだけ囲碁を学んだ。独学で。
そして、アマチュア六段の免状を持っている(頑張った)。
その時に使ったのが、磨かれたのが思考のセンスだった。
囲碁では、その枝分かれの数が、人間の理解の範疇を超えている。
だから、面白い。最近はコンピュータの方が上手だけれど。
全てを理解できない人間が囲碁を打つ際に使うのが、感性だ。
「一目千手」
プロ棋士が一瞬で読む手の数を自らそう評したが、実際はもっと多い。
時と場合によるが「次の3手」くらいは一瞬で見えることも多い。
中盤で150手の可能性があって、「次の3手」が瞬時に読めたら150*149*148で約330万手をみている。
そこから、一つを選んでいる。もちろん全部を見るわけでなく「感性」が教える少ない候補から選ぶ。
思考のセンスが必要だ。
今はすっかり忘れているが、当時はあやふやでつかみどころの無い局面こそに、自信があった。
感性なら負けないと思っていた。
この思考のセンスは囲碁をやることで磨かれたと思っている。
僕は高校時代、偏差値が分からなかった。
偏差値の順番にいい大学だと言われて、さっぱり分からなかった。
理屈は理解しても、分からなかった。
この「さっぱり分からない」と思えたところが、センスだ、と今は思っている。
実際、偏差値は全てではないのだから。それをきちんと感じ取っていた。
その感じ取った何かに、ちゃんと身を委ねたところがエライ(自分で言うやつ)
いま、数学を研究している。
計算能力、証明能力。全然足りない。
テーマ選びのセンスで戦っている。
テストだけなら、僕よりずっと優秀な人がたくさん、たくさんいる。
それでも、数学の研究ではちょっと評価されたりもしている。
果たしていつまでもつのか、どきどきもしている。
この感覚を磨くのに、ひとつ大事だと思っていることがある。
自分で選んで、そしてその選択に身を委ねることだ。
これはかなり、勇気がいる。失敗もする。
なるべく若いうちに、出来るだけ「選択と失敗」を繰り返すといいと思う。
若いうちなら、ほぼノーダメージだ。
確かに傷ついたり、凹んだりするけれど
少し年をとるとわかる、若い時のそれはほとんどノーダメージだ。
と言っても、いま、30代前半。今の僕でもせいぜいプチダメージだ。
どんどんやる気でいる。
多分あと10年もしたら、結構痛いんじゃないかと思っている。
それでもやる気でいるけれど。
自分の理解の範疇を超えた選択のなかから、何かを選ぶ。
そんなセンスがある。ただ、それだけを言いたかっただけなのに、アホみたいに自慢してしまった。
この辺のところは、本当にセンスがない。
2020年4月4日土曜日
がんばってマスク・手洗い・いろいろ自粛
「がんばってマスク・手洗い・いろいろ自粛」というのはちょっと危険だ。
人は、必ず「がんばれなく」なるからだ。
一ヶ月ならば「がんばれる」。
けど、おそらくこの騒動は最低半年、個人的には数年単位で続くと思っている。
その期間、頑張り続けるのは不可能だ。
とくに、マスク・手洗い・いろいろ自粛は予防だ。全く結果が見えない。
数年間「全く結果が出ない努力」をしたことはあるだろうか?
奇しくも数学は"そういう"分野だ。
僕が初めて論文を書いたのは、修士2年間の後、博士課程の1年目の終わり。
約3年、全く結果が出なかった。
人生をかけた挑戦だと思っていたのに、徐々にがんばれなくなって、
それが、自分の弱さに見えて、とても辛かった。
今は少し分かっている。人は、必ず「がんばれなく」なる。
だから、「がんばれなくても、続けられる」よう
「自分改革」を少しずつだけど、ずっとやっている。
「いかにして続けるか」
それをいま「がんばって」考えるといいと思う。
繰り返すけれど、この状況に「年単位で対応する方法」が必要だ。
楽に、楽に。できたら本来の目的とは外れた、別のモチベーションもあったらいい。
僕は気楽に
「遠隔授業の技術というのは面白いおもちゃだなー」などと
遊びながら楽しく生きているが、決して舐めている訳でもふざけている訳でもない。
数年続けるということの難しさを少し、知っているだけだ。
「数学の役に立ち方」というのはこう言う経験もあると、こっそり思っているのです。
なんでもそうかもしれないけどね。
人は、必ず「がんばれなく」なるからだ。
一ヶ月ならば「がんばれる」。
けど、おそらくこの騒動は最低半年、個人的には数年単位で続くと思っている。
その期間、頑張り続けるのは不可能だ。
とくに、マスク・手洗い・いろいろ自粛は予防だ。全く結果が見えない。
数年間「全く結果が出ない努力」をしたことはあるだろうか?
奇しくも数学は"そういう"分野だ。
僕が初めて論文を書いたのは、修士2年間の後、博士課程の1年目の終わり。
約3年、全く結果が出なかった。
人生をかけた挑戦だと思っていたのに、徐々にがんばれなくなって、
それが、自分の弱さに見えて、とても辛かった。
今は少し分かっている。人は、必ず「がんばれなく」なる。
だから、「がんばれなくても、続けられる」よう
「自分改革」を少しずつだけど、ずっとやっている。
「いかにして続けるか」
それをいま「がんばって」考えるといいと思う。
繰り返すけれど、この状況に「年単位で対応する方法」が必要だ。
楽に、楽に。できたら本来の目的とは外れた、別のモチベーションもあったらいい。
僕は気楽に
「遠隔授業の技術というのは面白いおもちゃだなー」などと
遊びながら楽しく生きているが、決して舐めている訳でもふざけている訳でもない。
数年続けるということの難しさを少し、知っているだけだ。
「数学の役に立ち方」というのはこう言う経験もあると、こっそり思っているのです。
なんでもそうかもしれないけどね。
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