2017年7月29日土曜日

ニューラルネットワーク

脳の回路を模倣したニューラルネットワークというのが流行っています。
その解説は他に譲りますが、学んでみると
自分が意識したり、無意識にやっていたことが
うまく説明されています。

スポーツをやっていた時、基礎練習を繰り返す作業は
頭の中に「回路を作る」
ことだと思っていました。
ニューラルネットワークの言葉だと、
「複雑な回路をひとまとめとみなす」
方が近いということがわかります。
複雑なものが「ひとつ」になったときが「わかった」ときで、
ひとつになったものだけが、とっさに出せるもの。

そしてその考え方はここに書いたことによく似ています。

囲碁をやって、ある程度の感覚が身につくと、
"碁盤の一点が光って"見えることがあります。
だいたいは、そこに打つのが正解。
意識しない回路が出来上がり、それが反応しているのかなと思ったり。

"感覚的"なさまざまに説明を与えることは大切です。

むかし読んだ論文で、今も目標にしている論文は
感覚的に良いと感じるアイデアを
見事に数学の言葉に直していました。

そうやって、きちんと記述できると、理解が深まって
きっといろいろ進むのです。

ことばにできない、を
ことばにしたいのです。

2017年7月22日土曜日

ものがたり

数学は言語だ。

よく耳にしますが、ぼくは物語を作るような感覚で数学を見ています。

言うなれば、物理やその他、現実に即した科学はノンフィクション、
一方で数学はフィクションです。

''文法''は決まっていますが、それさえ守れば何を描いても良い。

こんなに自由な学問はほかにないように思います。


でも、ひとむかし前にフィクション、''夢物語''として描かれた世界が
現実になったりしている。


わくわくする夢を描けば、いつか現実になったりする。
そうやって数学は世の中の役に立ったりするのかなと
思っています。

2017年7月15日土曜日

あいうえお

辞書にはたくさんの言葉が順番にならんでいます。
最初の一文字目を比べて、同じだったら二文字目、・・・
どこかで「先に出てくる」文字があれば、辞書でも先に出てきます。

"先に出てくる"数字は小さいです。
同じように先にでてくる言葉も``小さい''ことにする、

あい<あお<かお・・・

と不等号の記号で書くことができます。

同じことを、「数字のペア」で考えてみます。
$(0,1)<(0,2)<(0,100)<(1,0)$とさっきと同じように
最初の一つ目の座標($(a,b)$なら$a$)を比べて、同じだったら二つ目の数字を比べます。
辞書と同じように決まるので、これを辞書的順序とよんだりします。


この順序をみて、ぼくはとてもしみじみしたのです。

「目の前の壁」を乗り越えていけば、いつかはきっと到達できる。
とくに理由もなくそう思っていたのが"間違い"であると辞書的順序はいうのです。
$(0,0)$ の「目の前の壁」を越えると$(0,1)$。
一万回乗り越えて$(0,10000)$ となっても $(1,0)$ と
$(0,0)$からたった一つ数字を変えたものに絶対に"勝てない"のです。

あいうえお、なら大丈夫。
おわり、があるから、いつかは"繰り上がる"。
でも数字は無限個あって、おわりがないのです。
だから、"そのまま"では、
絶対にたどり着けない場所が、
生まれてしまうのです。

なんとなく、目の前のことに追われて
「頑張ってるつもり」になること。
本当はこのままではいけないと思っているのに、
"少し前に進む" からなんとなく続けていること。
それらは決して目標へ続く道へとはならない、
そんなことがあるのだと知りました。

二つの数字のペアを考えたから"上の"座標は一つでした。
でももしかしたら、10個、100個、もしかしたら無限個、座標があるかもしれません。

努力は正しい方向に向けないといけないのだと、辞書的順序に教わったのです。

新しい理論を学ぶと、身近なことが新しい目で見える、初めての経験でもありました。

あいうえお。

2017年7月8日土曜日

ミチハバ

藤井四段の連勝のニュースをみてミーハー心で対局の解説を見てみました。
囲碁と将棋は似ているようで、
対局終盤の''道幅''がけっこう違うようにみえましたというお話を。

将棋も囲碁も、先に王将をとる、陣地をとるという点で
レースに似た面を持つゲームです。

対局の際、幾つか岐路がみえることがよくあります。

近道だけれども、ミチハバが狭い道。
少し遠回りだけれども、ミチハバが広い道。

道を踏み外し、''落ちて''しまったらそれまでの苦労も台無し。
一気に追い抜かれます。
アマチュアの対局の多くは
最後に''落ちた''ほうの負けです。

囲碁は終盤に近づくにつれて、(ものすごい僅差の碁をのぞいて)
ミチハバはどんどん広くなっていきます。

将棋はミチハバがどんどん狭くなる。
というか、そもそも普段通っている
ミチハバが囲碁より一回り狭いようにみえました。

ぼくは将棋はあまり詳しくないですが、すくなくとも囲碁は
ミチハバの狭い道を華麗に渡ることも大切ですが、
「見逃しやすい」ミチハバが広くて近道でもある''よい''道が
たくさんあるゲームかなと思います。

狭い道を華麗に歩くのに大切なのはテストで良い点をとるのと同じような
しっかり確認して、ミスをしないという力です。

一方で、隠れた''よい''道を見つけるのに必要なのは
経験やセンスからくる感覚。

狭い道を歩くのが苦手なぼくは、どうにかして感覚を磨こうと努力しました。
そのためにやっていたことを書いたのがどっぷりとです。

数学をやっていても同じことを思うことが多々有ります。
華麗な計算を駆使して新しい理論を作ることにも憧れます。

でも、そういう計算その他が苦手でも、
隠れたミチハバの広い面白い道がみつかることがあるのです。

そんな隠れ道をみつける、見かけたらちゃんと気づく。
いつも気をつけています。

この道、素敵でミチハバ広くて面白いのに、
だーれも通ってないな。

そんな道を歩いていきたいのです。

2017年7月1日土曜日

数学のやり方

ぼくは最初の論文を書くのが遅い人でした。

簡単に言うと、工学から純粋数学へ移るという、
なかなかどうして頭のおかしいことをやったのが理由です。

でも、ぼくはかなり「準備をして」数学の世界へ飛び込みました。
大学院に入りたての段階で、
基礎知識は博士課程に進むつもりで研究してる友達と比べても
それほど劣るものではなかったかと思います。

でも、今となってみると「数学のやり方」をわかっていなかった。
とくに、大学4年間を数学科で過ごすと''自然''に身につく
感覚のようなものがどうやらあるようです。
準備がそれなりにできていて、セミナーなどを順調にこなしたぼくがいざ、
研究の段階に入ると、急に何もできなくなりました。

何かが足りない。

そう気がついたのは大学院の4年目(標準は5年)のはじめくらいでした。
共同研究者や周りの人にそれを''補って''もらいながら、
それが何か、わからないままに博士号をもらいました。

きっかけ一つで、論文なんていくらでも書けるようになる

拠り所にしていたアドバイス。

博士号を取った後、
ぼくはその何かを、きっかけを掴む必要がある。

そう思い、一人で研究をするように心かけていました。

苦労して、失敗して、少しだけその「何か」がつかめた感じがした。
それは、数学がひとりでに動きだしたときでした。

ぼくが間違えても、数学はそれを教えてくれて、
正しい方向まで示してくれる、そんな経験。

きっとまだまだいろいろあるのでしょうが、
少し前に進んだ気がしたのでした。