2020年12月20日日曜日

本棚

 基本的に若いうちは 多くを知っていることより、数学を学ぶ理由をどれだけ確固たるものに できるかが大事だと思っています。ということで、数学書も多少載せましたが基本的には僕が読んで 「研究者に、数学者になりたい」と思うようになったきっかけや、元気をもらっていた本を適当に並 べてみました。お気づきかもしれませんが、僕はたぶん変わった人です。ですので、このリストはたぶん少し変わったリストです。

一般向け書籍

• 100年の難問はなぜ解けたのか―天才数学者の光と影

ポアンカレ予想を解いたペレルマンが主役?の本。ペレルマンは捕まらないので、ポアンカレ 予想に関わった多くの(超一流)数学者へのインタビューがたくさん。あとがきの最後の一言 が好き(ぜひ読んで)。

• 若き数学者への手紙

数学者が、数学を志す女の子、メグに向けて数学の面白さ、価値を伝える手紙をまとめたもの (実際に送った手紙ではなく、おそらく「そういうスタイル」の本)。幼いメグに向けたものか ら、だんだんと成長していくメグへ、数学者として生きる楽しみや、ちょっとしたコツなどかがとても良い語り口でまとめられている。

• 志学数学 -研究の諸段階 発表の工夫

数学を志す人(これから志そうという人を含む)のためのアドバイス集。勉強の仕方、セミナー の準備の仕方、研究へと進むために(おそらく)実体験をもとにした激励の言葉がたくさん。 よいですよ。

• シンメトリーとモンスター 数学の美を求めて

一応、一般向けの本みたいだけれども、ある程度数学がわかる人(きっとみなさんなら大丈夫) でないと楽しめないかも、と言う本。基本的には多面体などの対称性としての群論などの話だ が、多様体の対称性もかなり同様の理論であり、幾何の話にも感じられる。原著を読んでも良 いかも。

• ご冗談でしょう,ファインマンさん 

ただただ僕が好きな本。ファインマンは物理学者(ノーベル賞受賞)であるが、分野が多少違っても 研究生活に大事なこともたくさん書いてある。基本的には、ファインマンのいたずら集。

•  江戸の科学者

江戸時代の科学者の物語。数学者もでてきます。江戸時代は今のように国が科学にお金を出し たりしているわけではないため、学ぶ理由に 日本のため楽しいなど、現代とは違う覚 悟が見える。

2 きっと読める本 

Algebraic topology

Allen Hatcher による代数的トポロジーの本。基本群など、知っているべきことが全部書か れている。著者が pdf を公開しているので無料でよめる。

Topology from the Differentiable Viewpoint

フィールズ賞受賞者で、授業や講演も上手な John Willard Milnor の本。通常とは違う定義で 多様体などが定義されているが、きっと読める。和訳も出ているがどうやら和訳の方は評判が あまりよくない(僕は読んでいない)

• 結び目と量子群

有名な「体積予想」を提唱した数学者の 1 人である村上順先生の本。これはとても読みやすく、また 研究に近いトポロジーを経験できる。

• 多様体の基礎

日本人で、幾何をやる人はほぼ全員(一部なら)読んだことがあると思われる本。ダンディな 松本幸夫先生による、とても丁寧な解説(これを読んで、説明がくどいわ!と思うようになっ たらいい感じ)。ただ、授業でも多様体はやるだろうからその意味では焦って読む必要はない かも。

2020年11月8日日曜日

数学とRPG

数学はRPGのようだとよく例えられる。
新しい定理や概念を覚えることは、新しい武器を手に入れたり、
新しい魔法を覚える感覚に近い。
RPGならば、新しい武器や魔法を手に入れる他に、強さを増す方法がある。
レベルアップだ。ひとは、いつレベルが上がるのか。
色々な意見があると思うが、僕が思うに、人のレベルは感動した時に上がる。
数学をやっていると、議論がわからなくて数時間、数日、数週間、・・・。
長い時間考え続ける必要がでてくる。
長い思考の末に、考えていた問題に秩序を見出し、「意味不明」だった議論が「ほとんど自明」になる瞬間がある。
少なくとも僕はそんなとき、とても喜び、楽しいと感じる。感動がある。
心が動くと、座っていられなくなってお散歩へいく。ちょっとした勝利の行進である(ひとりだけど)。
感動が大事な学問ならば。
巷でよく言われる「正解が一つでつまらない」「無機質で合理的でお堅い」そんなイメージとはだいぶ違うだろう。
(数学の世界に長くいると忘れがちだが、世の人は本当にこんなイメージで数学をみているようである)
心が動くためには、感性が必要だ。
感性はつかみどころがなく、結果として驚くほど簡単に``忘れられる''。
ふとした風に肌がふれる心地よさに気付き、感動したりしないだろうか。僕は、よくある。
何度も同じように感動してしまうのは、僕が愚かだからかもしれない。
(僕の)感性は本当にすぐ、大事なものを忘れてしまう。たぶん、忘れてはいけないものもたくさんあるはずだ。

と、ここまで書いてふと思った。
授業というスタイルはどうしても、技や魔法の伝達に重きをおきがちだ。
レベルアップは確かに「自分でするもの」かもしれないが、
そんな視点があっても良いかもな、などと思っている。

2020年10月31日土曜日

はっけん

 え?もう寒い?

秋よー、あっという間だなー。。

と思っていたら帰ってきた気がする。秋。

最近、ちょっと良い数学を"思いついて"喜んでいた。もう、と言うべきか、まだ、と言うべきか、数学をはじめて12年、ひとまわり。大学卒業後からなのでスタートは遅い。

こんな数学を思いつくなんて、長くやってきた甲斐があるなーと思ったりしたけれど、違う違う。

思いついた、だなんてウソ。それじゃあ僕からでてきたみたいじゃないか。
たまたま出会っただけだ。
その上、ぼくはうっかりもので出くわした数学を書き留めるときに小さなミスをたくさんするから数学の姿をつかみ損ねる。
ある程度書けて、ここまで書けたら、その先で容易に想像できそうな箇所がたくさんあっても、目を凝らしてウンウン唸って、なんとか復元できる(そこでもミスる)。
たくさんの周りの人に助けてもらって、どうにかこうにか形になる。

僕の力を超えて、色々できる感じが数学っていいなあと思っている。

最近、なぜか気分が乗って野菜や果物をたくさん机に並べている。りんご、かき、みかん、アボカド、かぼちゃ。いろいろ。
特に僕は何もしていないけれど、みんなだんだん熟れていく。美味しいタイミングが見たり、触ったり、においでわかるようなってきて、楽しい。数学が熟れていくさまと、似ている気もする。僕は何もしていない。ただ、いい感じになったときに、美味しくいただくのだ。

という気分で研究をしている今日この頃。
秋らしいかなと思っている。いいか悪いかわからないけれど、僕は好き。

2020年9月12日土曜日

謳い文句

トポロジー、双曲幾何、そして数値計算。
最近になって機械学習との関連で注目を浴びていると聞く。
でも、この講義ではそんな最近のトレンドは出てこない。
トポロジー、双曲幾何、そして数値計算。
なあ、これらを使ってお金が儲かりそうなことを考える前に、
やるべきことがあるだろう?
トポロジーも双曲幾何もそして数値計算も、
震えるほどに、面白いんだ。
気づいているだろう。
どれだけやる気があって、どれだけ能力があって、どれだけ努力しても。
ただただ楽しんで、夢中になっている奴には敵わない。
楽しんでるだけで、努力してるだなんて微塵も思っていない、そんな奴がいるんだ。
楽しむ。それは、特別な人だけが持つ特権なのか?
そんなことはないだろう。
このレクチャーの目標は、楽しさを伝えることだ。
いつも思っていることがある。
講演とか、授業とか。「わかりやすい」が売り文句になりすぎだ。
赤ん坊にとって、世の中はわからないもので溢れている。
何一つ、わかりやすくしてくれなくたって、
赤子は、言葉を覚え、考え、どんどん吸収していく。
なぜか。
世界がどうしてもわかりたいと思えるほどに、魅力的だからだ。
講演や授業は、わかりやすくなくていい。ただ魅力的であればいいんだ。


どうか聴きにきて欲しい。
トポロジーに、双曲幾何に、そして数値計算に。
僕が、夢中にさせてやるよ。
学ぶことが楽しくて仕方がないと、そう思わせてやるよ。
そうしたならば、あとは楽しむだけだろう?

すみません、とても調子に乗りました。こんな気分でお話しします。

=========
お話ししていません。いつか実現すると良いなと思っています。

2020年8月29日土曜日

情報の伝達速度

 数学の発表では黒板が好まれる。
100人を超える聴衆がいたとしても、黒板で発表することは往往にして選ばれる。
なぜか?
もちろんスライドを用意して巧みに発表する人はゼロではない。
けれど、実感として9割のスライド発表は聞く気が起きない。
一つの理由としては、「早すぎる」ことが挙げられる。
一度に大量の情報を提示できてしまうために、「伝わった気」になりやすい。
情報を見せることと、伝えることのギャップに気づきづらい。
黒板発表では、文字を書くスピードに限界がある。
(注:その限界は想像よりも上にあり、マシンガンのようにチョーク音を響かせる人はたくさんいる。それでも、スライドとは比べ物にならないほどに、伝わる)
他にも、「再現性」も大切らしい。
黒板発表では文字は普段自分が書くのと同じように再現される。
それが頭に残りやすいらしい。
きちんとした証拠を調べたわけではないけれど、実感としてはとてもよくわかる。
黒板。なにより、数学がその人の体から溢れ出てきている様子をまさに見ることができる。
これがとてもよい。道具に頼って失って欲しくないものだ。

もう一つ、黒板発表を僕がオススメしたい理由は「効率」だ。
一見スライド発表の方が効率が良さそうに思えるかもしれない。
しかし、プレゼン資料の作成には膨大な時間がかかる。
少なくとも僕には「やってられない」。
黒板発表だったら、せいぜい発表時間と同じ時間があればいい。
とりあえず発表練習をしてみて、文献や説明がスムーズにいかないところを一度見直せば十分だ。
僕なんか結構準備なしで発表している。
逆に言えば、時間をかけるべきは「理解」であり、
十分な理解ができていない事を発表「できない」がゆえに、黒板は良い。
「スライドがあると安心だから」
よく聞くその理由は黒板発表に挑戦して失敗するよりも、はるかに多くのものを失っている事を知ってほしい。
成長の機会。それより大事なものが他にあるのかい。

少なくとも英語では講演のことを「Talk」という。
「プレゼンテーション」ではなく「トーク」。会話である。
会話がしたい。資料を見せられると、会話になりづらい。
"プレゼン"資料って言ってしまうだろう?

もうあんまり隠す必要もないと思うので正直に言うと、僕はほとんどのスライド発表を聞いていない。
面白くないし、疲れるから。
通常だったら特に問題はない。結局、数学的に面白い講演はほとんど板書だ(卵?鶏?)。
今はオンラインでスライド講演が増え(僕は黒板発表を中継していますが)どうにも困っているけれど。まあ、聞いてなくてもバレないので大丈夫である。

板書が、手書きが、生身が。
一番効率よく、情報を伝える分野があると言う事を知ってほしい。
めちゃめちゃ格好よくない?
カッコイイよ!
数学やろうぜ!

2020年8月16日日曜日

授業のエンタメ化

 今年は、授業をエンタメ化した。
オンラインなのをいいことに、フィルターを使って
女の子に
子供に
おっさんに(もともとおっさん)
なった。
他にも雑談で授業とは関係ない話をした。
オフィスアワーも開いて学生さんとなんでもないお話もした。
毎週の課題ではちょっとした大喜利のお題のようなものを出した。
一緒に集めた感想で、僕のおふざけは好意的に受け取ってもらえていることを知った。

ぜんぶ、オンラインだからやったことだ。
正直に言えば
僕は授業のエンタメ化には反対だ。
普段は雑談もしないし、変に仮装したりなんて、もちろんしない。
無駄に楽しませたりはしない。

遊んだ方が評判がきっと良くなるだろうとは思っていた。
実を言うと、授業を本当に初めてやっていた頃は、ちょっと工夫をしたりしていた。

そのうちに、気づいた。
これ、いらないんだ。
受け入れられないと言う意味ではない。
ただ、感じ取った空気があった。

僕が本当に伝えたいと思って、懸命に数学の話をすると、学生は聞く。
一生懸命、聞く。それがこちらに伝わるほどに、真剣に。
この本気の視線を感じ取ってからは、ふざけるのをやめた。
エンタメは、いらん。
実際、あまりにエンタメ化が過ぎると結局授業の内容が頭に残らないと言う研究も聞く。
楽しかった記憶のほうが残るからね。

学生には、小細工なしの本気の授業はちゃんと届く。
無駄話のような、小手先のテクニックは使わない。
それが、僕の決断だった。

そして、すべてがオンラインになった。
最初は、こだわりを大事にしていた。
けれど、途中で限界を感じた。

なにより、「何も返ってこない」。
そして、学生も、僕も家からほとんど出られない日々が続き、退屈していた。
じゃあ、仕方ない。
そう思って始めたエンタメ化は、とても楽しかった。
フィルターはすごいや。
雑談も、伝えたい「熱」はいつもあって、それを言葉にできてよかった。
全部を詰め込まないと、もたないと感じていたから、だいたい全部を使った。
立派にネタが切れてひいひい言っている頃に、前期が終わった。

楽しかったけれど、よかったら聞いてくれ。

本気で、命をかけて、真剣に「学ぶ」ことは、
その何倍も、何十倍も楽しい。

エンタメ化で本当の楽しさを覆い隠してしまって、申し訳ないと思っている。
早く、いつも通りが戻るといいなあ。

2020年8月1日土曜日

オンライン修行

高校1年生の10月、僕は膝の手術をした。
半月板損傷。本気でやっていた走高跳(こんな感じで)。
リハビリがうまくいかず、結局手術のあと跳べるようにはならなかった。

悔しくて、悔しくて、悔しくて。
身体中から湧き上がるエネルギーの矛先を探した。
ヒカルの碁のアニメをたまたま目にした。
囲碁なら、怪我をしていても、できるな。

弟とルールを一緒に勉強して、遊んだ。
僕は、もう少し勉強してみようと思った。

ネットを探すと、産まれたばかりのネット碁会所があった。
毎日ログインをし、だんだんと会ったことのない友人ができ、囲碁を打って遊んだ。
そのうちに、オンラインで囲碁の指導をしてくれる人が現れた。
実際に対局をして、色々教えてくれた。
学校の図書館に行くと、囲碁の本がたくさんあった。
通学の電車で囲碁の本を読むようになった。

少し勉強して、ルールを学んだ後とくに囲碁に触れていなかった弟と対局した。
負けた。
弟のやつ、パズル系に強めの才能を持っていやがった。
でも、僕は囲碁を学ぶことをやめなかった。
オンラインで毎日毎日対局した。
囲碁の本を読み漁った。

覚えている風景がある。
年末か、年始か。それくらいの頃。家の廊下で母親とすれ違いざまに。
ぼくは何気なくを装いながら、つぶやいた。
「囲碁、本気でやってみるわ」
母に聞いたら、全然覚えていなかったけれど、本気の宣言だった。

しばらくはオンライン、ネット碁をずっとやっていた。
教えてくれる人は結構たくさんいた。
パソコンの画面と毎晩にらめっこ。
そのうちに、碁盤が欲しくなってきた。

やっすい碁盤と碁石を買った。
実際に石を並べてみて、今度は人と打ってみたくなって碁会所へ行った。
家で実際に碁盤を使ってみて、碁会所で対局をしてみて、そして、驚いた。

見える、「深さ」が全然違う。
画面では見えなかった手がたくさん見えた。

オンラインでは集中できないというのは、不慣れなだけか、言い訳か。
幼い時からテクノロジーに囲まれた"ネイティブ"なら大丈夫なのか?
ずっと考えていたけれど、少なくとも僕から見ると「大きな差」がある。
僕は囲碁をオンラインで高校生の時に学んだ。
結構ネイティブじゃないか?

いま、オンラインで数学の話を聞いていても、本当の意味で集中した感覚は得られない。
もちろん、聞かないよりはずっと"まし"だけれども。
深みに入る入り口で、通行止を食らう。

しばらくネット碁を控え、碁盤で勉強した。
本を読んで、自分で考えた。

近所の碁会所のオーナーさんがとても素敵だった。
「本を借りたり、一局打つくらいならいつでもタダでいいから」
お言葉に甘えて、学校帰りにふらっとよっていた。
よくみると、となりの学習塾から中学生くらいの子がやってきて、
おじいちゃんと一局打ったりしている。
今思うと、なんと素晴らしい交流の場かと思う。

商売っ気のない場所は空気がゆっくりしている。
商業主義はそんな心地の良い場所を無慈悲に壊す。
高校を卒業し、僕は地元をはなれた。
しばらくみないうちに、その碁会所は無くなっていた。
タダになんかするからだ。ばかやろう。

高校時代の僕は定期的に通って、昭和の強豪の棋譜を借りて、片っ端から並べた。
タダだったから、いつも申し訳なかったけれど、お金もなかった。

僕は感覚派で、おなじく感覚派の棋士の勉強をすると強くなった。
逆に、地に辛く、読みの正確さで戦う棋士に触れるとしばらく弱くなった。
全ての棋譜をタダで貸してくれたあの碁会所には本当に感謝してるし
無くさないためにできることはなかったかと今でも思う。

通学の電車の行き帰りではずっと詰碁を解いていた。
それだけでなく、数学の授業の時間など演習問題を即座に終わらせ、
またまた囲碁の本を読んでいた。
朝早く起きて、棋譜を並べてから学校へ行った。
間違いなく、僕は、本気だった。

少しして久々にネット碁を打った。
すごい強い相手で、ボコボコに負かされた後、なぜか対戦相手から言われた
「今すぐ師匠を探して上をめざしたほうがいい」
センスをひたすら褒めてもらえた。

どういう成長曲線を辿ったかの記憶があまり定かでないが
「本気でやってみる」
囲碁を始めたばかりで、そう宣言したあと、1年と少しだけたった2月に
僕はアマチュア6段の免状を得ている。

なかなか頑張った記憶はあるが、今はとても自分のこととは思えず
他人のことのようにすげーなぁと思っている。

今、思うことは一つ。
確かにネット碁はきっかけになった。
そこからひらけた道ではある。
でも、僕は囲碁を始めて3〜4ヶ月後から、オンラインでのネット碁は打たなくなった。
リアルで碁盤で打つ時の、本気の集中が好きだった。

これは、まやかしなのか?
オンラインでも、本当は集中できるのか?

色々なことをいう人はいるだろうが、僕は思う。
本物の感覚は、オンラインでは、得られない。

いま、その感覚が忘れられようとしている。
久々に人と会って話した時、
言葉や表情(2次元)を超える雰囲気をやりとりした時、
残る感触が"学び"にも必要ではないかい?

人と会って、話して、"やりとり"をして。
お風呂に入ったら。
眠っていた感覚が生き返る、そんな気持ちの良さがあった。
人は皮膚でも会話をしている。
ずっと忘れていたものだった。

あったんだよ。あるんだよ。
それはどうしても忘れちゃならないものだと、強く僕は思う。
わかりますか?わかって、欲しいです。

2020年7月18日土曜日

黒板発表

久しぶりに研究発表を黒板でやった(無観客オンライン中継)。
授業動画は毎週撮っているのだけれど、やっぱり研究発表は違う。

すげー疲れた。ぐったり。

あとやっぱり不安。いつもだったら振り返れば人がいて空気がわかるけれど
オンラインだと、全然わからない。
ときたま画面をのぞいて、参加者に手を振りたくなる。

でもよかった。
タブレットに手書きだと疲れない。らく。
楽っていうのは、きっと何かが足りてない?

受け取ってくれる人が目の前にいなくても、
ぐったりするぐらいの仕事を久々にやって
とても楽しかったです。はい。

2020年7月11日土曜日

2周目

毎週、自分の授業動画を撮っている。
自動化されてる必要最低限の編集はあるけれど、
基本ノーカット一発撮り。
録画ボタンをおして、チョークだけ持って黒板の前に立つ。
講義ノートも作らず(作れ)なんとなくお題を頭に入れてその場のノリで話している。
学生に見せる時に一緒に見て、案外うまくやってんな、なんて思っている。
(ちょいちょいミスはするけれども)

これがあればもう来年から授業しなくて良い?

ま、十分かもしれない。僕の動画、結構いい感じだし(調子に乗っている)。
でもね。一つ、信じていることがある。
授業をするようになってまだ2年目、2周目。

まあ、みておれ。
来年の僕はもっとよい。

全部が自動化されたら、人はいつ成長するんだろうね。


2020年7月5日日曜日

数学キライ

「数学を研究しています。」

そう言うと、結構な頻度で
「数学苦手でしたー!」
「数学キライでー。」
と言われる。
「わーすごいですねー!」
となることも、あるけれど、あんまり多くはない。

これってすごいな、と思う。
もし「数学」でなくて、ちょっとオタクな趣味だったとして。
それを人に話して、一言二言目に「苦手」や「キライ」と言われたら、
人の趣味を否定するな!
と、方々から叩かれそうな事案である、ようにみえる。

だからみんなそんなこと言うなよ。
とは思ってないのが、数学のよいところだと思う。
「はは、そうですよねー。正直言うと、僕も気持ち分かります」
僕も中学高校の数学好きじゃなかったし(がんばれよ、学校教育)。

なんやかんやで数学に携わっていきている人は、どれだけ受け入れられなくても
変わらぬ価値がそこにあることを心の底から信じている。
どーよ?おもしろそうやろ?(どうやら最近あおりブーム)

2020年6月27日土曜日

無駄な学び

学生さんにオススメの本を聞かれて、とある本を紹介した。
どういうところが良いんですか?
そう問われて、僕は自信満々に「この本、全然役に立たないの」と答えた。
1年生の数学を、効率や分かりやすさを放り出して、歴史の順番に解説する本。
手っ取り早く必要な数学を勉強したい。
そんなニーズに逆行する本だ。きっと多くは無駄な学びである。

それが大切であることに、何一つ疑いを持っていなかったが、
その説明では学生さんに対してあんまりだと思った。
言葉にしようと考えてみると意外と難しい。
最初は、「発見は効率的にはなされない」がメインの理由だと思った。
何か新しいものを探すのに、効率よく手軽になんてことはない。
試行錯誤の繰り返しで、たくさんの無駄を超えた先に価値があるものが、ごくごく稀にある。
それがきっと、発見。
だから若いうちに効率度外視で、人類の発見の歴史に沿って学ぶのは大事だよ。
うんうん、良い感じだ。
まとまりかけたところで心が疼く。何かが違う。

家にいる時間が増えて、懐かしい漫画を手に取った。
ワンピースだ(今も続いているけれど)。

過去の大海賊が残した秘宝、ワンピースを探す物語。
大海賊と冒険を共にした男に出くわした主人公の仲間がワンピースについて尋ねようとした時に、主人公のルフィが言った。
「ここで何かを教わるなら、おれは海賊を辞める。つまらねえ冒険なら、おれはしねえ」

しっくりきた。
効率よく、"必要なこと"だけ学んで楽しいかい?
効率は、点数であるとか「誰かが決めた枠組み」の中でしか定義されない。
そこに何があるかわからないけれど、それでも面白そうだから学んでみる。
冒険にワクワクするように、新しいことを学ぶ。
リスクも全部ひっくるめて楽しむほうが生きる実感がある。

数学科に行くことが、博士課程へ行くことがギャンブルであるのはよくないとか、実態と違うとか、そういう意見をよく見るが、僕はいつも思う。
ギャンブルでよくないかい?無駄になってもよくないかい?
うまくいかなかった時に、人生が詰む不安?
大いに結構じゃないか。
それでも、研究が、数学がしたい。
リスクがあるからこそ、その覚悟は輝く。

数学科に行っても、博士課程に行ってもそこで培った能力は役にたつから安心して進学したらいいよ。

そんなぬるい覚悟で行ったら、ボッコボコにされる。
「だから」めちゃくちゃ面白い場所であって、心がヒリヒリする経験ができる。
そして、ここにはその戦いを切り抜けてきた魅力的な人がたくさんいる。
オススメも保証もしない。来るなら人生を懸けろ。
こんなこと言ってはだめですかい?

無駄に熱い?そうですかい。

2020年6月6日土曜日

おやつ

もずく酢を覚えたため、数学をしながら食べる夏のおやつTOP3が

1. 豆腐
2. もずく酢
3. きゅうり

となりました。きゅうりに続く第3位にいたハムは値段とカロリーがネックでランク外となりました。

2020年5月31日日曜日

ほんほん

「本論文は〜」や、「本章は〜」のノリで本を指したいと思い、「本本は〜」と頭に出てきてしばらく離れず困りました。 
ほんほんは?って言うっけ? 

しばらくしてわかりました。 
「書」ですね、「本書は〜」ですね。 
本を指して「書」とは、なんてかっこいいんだ。

2020年5月24日日曜日

つーゆー

エネルギーがちょっと低空飛行気味。
だいたいの「いつもと違う」お仕事がひと段落して気が緩んだのか。
それでも、いつもと違う今の状況に疲れたのか。

ただ単に、そろそろ梅雨なのか。

元気やーい、と思って
「この授業に関する感想、要望、励ましの言葉などありましたらどうぞ」
と(ちょっとおふざけで)課題の最後に書いておいたらたくさん励まされてしまった。

ぷち職権乱用感(ぱわはら?)。ごめんなさいー。
でも元気でました。ありがとー。

2020年5月16日土曜日

はい、書けません

当然のように文章が書けません。
いま、書けないのは「とても良いこと」だと思い始めました。
数学はぼちぼちできるので、できることをやっています。

2020年5月9日土曜日

初めてのオンライン授業

多くの人が初めてオンライン授業を受けている、している。
僕も初めてで大変だ、と思っていたのだけれど、ふと思い出した。

18年前、2002年、僕は中学3年生。
インターネットが世の中に普及し始めた頃、
思い返せば僕は「オンライン授業」を受けていた。

中高は陸上部で走高跳をやっていた。
弱小部で顧問の先生はほとんど練習に来ない。
入部当初はよかった。先輩や、たまーにやってくる顧問の先生のアドバイスが役に立った。
記録も少しずつ伸びていった。
ところが中学3年生になると(中高一貫にもかかわらず)、走高跳をやる先輩はいなくなり、稀にやってくる顧問の先生も専門は投擲で、レベルが上がると頼りにならなくなった。
記録も伸びなくなった。

そんなとき、僕はインターネットを知った。
当時のネットはビデオ通話なぞ夢のまた夢で、「メール」と「ホームページ」がようやく広まった程度(調べたらネット普及率65%くらいだったらしい)。
今では危ない人がたくさんいるネットの世界は、「新しい物好き」の魅力溢れる人たちであふれていた。
面白いテキストサイトがたくさんあったし、まだ「検索対策」があまり広まっておらず検索結果でトップのサイトはどれも面白かった。

僕はとある大学で走高跳を専門に研究している大学院生さんのホームページを見つけた。
「学生の指導をしています。興味がある方はメールをください」
僕は恐る恐る、メールを送った。
「中学3年生です。指導者がいません。走高跳を教えて欲しいです」

メールで技術的なことに関する質問や課題を送ると
練習メニューや、新しい練習方法などを教えてくれた。
それを実践し、また質問してアドバイスをもらう日々。
練習中は一人だったから、自分で練習の意味や効果をずっと考えていた。
アドバイスの意味も試行錯誤で自分なりに解釈していった。
意味が「わかる」瞬間がたまに訪れる。とても、楽しかった。
そのうちに僕はHTMLを覚え、自分のホームページを作った。
練習内容と感想を書き溜めて、メールでお知らせした。
褒めてもらえると思っていたのに
「練習への感想が甘い。ふざけているように見える」
怒られた。でも、本当にその通りで、反省した。
そんなやりとりが1年ほど続いた後のGW、高校初めての大会で僕は自己ベストを大きく更新した。
メールで知らせると、まるで自分のことのように喜んでくれた。
嬉しかった。

メールだけであったけど、あれはきっと、オンライン授業だったと思う。
その後すぐ、僕は怪我をして、走高跳を断念せざるをえなくなった。
やりとりは終わってしまった。
それでも、一度も会ったことのない先生とのメール、
それを元にした練習の日々は本当に楽しかった。結構結果も出た。

走高跳をやっててよかったなと思うのは、自己ベストを出した日が
「人生で一番高く跳んだ日」
になることだ。響きが好きだ。
だからGWはいつも気分がいい。それは今年だって変わらない。
オンライン授業が僕にくれたもの。

技術が発展して色々できる。オンラインでも、僕でも
なにか、できるかもしれないと、思わせてくれた、思い出。
がんばります。

2020年5月2日土曜日

不必

不要不急と言う言葉が叫ばれて久しい。
必要なもの、というのは何か?も考えたいが、ひとまず置いておきます。
現状僕がインターネットに対して感じている感覚をまとめておきます。

インターネットでは、オンラインでは"必要な"情報にしか触れられない。
「""」をつけた。
オンラインショッピングでは、目的の商品に一発でたどり着ける。
お店では目的の商品が見つからず、色々物色しているうちに"必要でない"ものを手に取る。

文献を探すにしても、検索してお目当の文献があればおしまいだ。
図書館に行けば本来の目的には"不要な"文献にたくさん触れる。

オンラインで、"必要のないもの"に触れ続けるのは難しい。
世界のセミナーがオンラインで開催されている。
いくつか参加しているが、自分の研究と直接の関係を見出せないオンラインセミナーに参加するのは難しい。
僕の体感ではほとんど不可能だと思う。
研究集会で、自分の研究と直接関係のない話を聞くのも"必要でない"。
そう感じながらも、お世話になってる先輩だったり、
たまたま巡り合わせで一緒に飲んだ研究者さんだという理由で話を聞いてみる。
僕だけかもしれない。けれど、「その場にいれば」こんな遊びがとても楽しい。
実を言うと、僕が最近よく研究している「タイヒミュラー空間」(宇宙際ではないです)
はその大部分を、そんな「耳学問」で学んだ。
初めは自分の研究との関連が見出せず、ただなんとなく聞いていた
"必要のない"話が、いつしか自分の研究の中心テーマになった。

そうして、教育に思いを馳せる。
教育現場で習うことは、そのほとんどが"必要のない"ことだ。
喫緊の課題と感じて学んでいる人は、ほとんどいない(社会人学生さんはそう、かも?)。
本来は、それでいい。僕も長いことそうやって、なんとなく学んだ。
けど、今はオンラインだ。
"必要でない"ものに触れるのに、それをオンラインでやることにおける課題は多い。
一つ、受講側へアドバイスをするならば、なるべく対話をするといいと思う。
大勢が参加する授業で発言をすることは、恥ずかしいかもしれない。
けれど、そこは「がんばりどころ」だ。
何回か勇気を出して発言すればきっとすぐ慣れる。
そして、もうひとつ。
授業でガンガン発言したとして「調子に乗ってる。うざい。」などのイメージをもたれるかもしれないが、
積極的に授業に参加している人間に対してそんな感想を持つ相手とは、そもそも付き合わない方がいい。
大丈夫、きっと仲間はいるよ。
とにかく、何もせずに見ているだけならオンライン授業は時間と目の浪費に近い。
(最近、僕はとても目が辛い)
自分で教科書や参考書を読んだ方が、情報を集め、知識を得るだけならずっと効果的だ。
自分の声で質問をすれば"無駄な知識"に触れる際におそらく大切な「肉体的な感覚」を少しでも得られるように思う。

そうして得た"無駄な知識"がどうして必要なのか。
なんとなく伝わっていると嬉しいけれど、
ちょっと長くなったので、またの機会に詳しく。

2020年4月28日火曜日

無題

文章が書けない。
誰にも言われなくても、あんなに書いていた文章が、書けない。

別に仕事でもなんでもないし、書かないと誰かが困るわけでもないのだけれど。
でてこない。

理由は知っている。四角い画面を見過ぎなのだ。

そんなに、小さな画面ばっかりみなさんな。
外をみてみい。世界は広がってるさ。

って、言いたい!言いたいのだ!ずっと言ってきたのだ!

無題!

2020年4月19日日曜日

科学と文化

或る日「突然」失われた日常が戻ることはないだろう。
戻るとしたら、徐々に、ゆっくり、少しずつ。時間をかけて。
僕個人の予想だと、ながーい時間がかかる。
その時に、何を戻し、何を変えるべきか。
科学と文化が協力して、考えたら素敵だ。

科学は「何ができるか」を
文化は「何をすべきか」を
それぞれ提案して。

何ができるかが分からなければ、何をすべきか、分からない。
何をすべきかが分からなければ、何を作ればいいか、分からない。

科学が、文化が、芸術が、大切に扱われるべきだと言うならば
こういう時に進むべき「未来」を提示して見せる必要がないか?

オンライン技術はほとんど全部、外国産で
アーティストや芸術家は、なんか「文句」と「いいね」ばっかり集めてる。
もちろん、全てがそうではないだろうし、難しい、苦しいのもわかるけど。
だいたいは、残念ながら。

かく言う自分も、なんにもない。
ただ。

数学は、科学と文化の中間地点にいるはずだ。
数学は科学の基礎である。
同時に、数学の研究は文化的だ。
「正しさ」の感覚。
先が見えない時に「正しさ」を嗅ぎ分ける嗅覚。
きっと役に立つはずだ。

ひとまず目の前の課題として、
どうやって学生を学校に来れるようにするかを考えている。
半分?1/10? 一部だけでも、なるべく早く教室で授業をするための方法を考えている。
オンラインと対面の両立が必要だ。黒板を中継するための方法、実は大体できている。
この騒ぎは年単位で続くと思っていて、その間、新入生が
入学して一度も大学で授業を受けられない期間が続くのは違うだろう。
いつまでも何もしないわけにはいかない。
「できること」を探していくべきだと思う。
「スペースに余裕がある教室での授業」などは「できること」ではないか?
少なくても「すべきこと」だと僕は思う。
今はまだ早いにしても、社会全体として、どこかで舵を切る必要がある。
「できること」と、「すべきこと」を、きちんと考えて。

一方で、僕たちは大きく学んだこともある。
淀んだ空気はきれいになり、濁っていた川は透明さを取り戻した。
変えられないと思っていたことは、いとも簡単に変わった。
元どおりに戻す必要はないし、正直、戻してはいけないものもたくさんあるだろう。

命についても考える必要があるだろう。
「助けられるはずの命」という言葉を度々目にする。
いずれ失われると。
いま、実際のところは救われた命のほうがずっと、ずっと多いだろう。
命が人間だけのものじゃ、ないならば。地球は少し、きれいになった。

3月の中旬頃に英語で「地球にとってのウイルスが人間であり、コロナはそのワクチンである」というツイートが回ってきた。極論かもしれないけれど、この類の主張が「日本語」で表現されているのが散見されるようになったのは本当に最近だ。

海外がいつでも正しいとは言わない。
僕はこだわって、日本に居座っている。いいところがたくさん、たくさんある。
世界中で、「課題」が浮き彫りになった。
そのほとんどが、「やればできる」ことだったように思う。
考え方の、心の問題だった。

ずっと思っていた。物質的な豊かさはもう限界で、これ以上追い求めても結局苦しくなるばかりではないかと。
一方で、精神的豊かさは大いに、大いに成長の余地がある。

きっと、そういう時間だ。
さあ、世界が、日本が、僕が。
何を考えるか、正直に言えばとても楽しみである。

2020年4月11日土曜日

センス

オシャレが苦手だ。
キライでなく、ニガテ。上手にできない。
どんな服を着れば良いのか?
素敵なインテリアとは?

上手にできない。でも、オシャレなものは素敵だと思う。
カフェによく行くのは、僕のニガテなオシャレをサービスしてもらえるから。
(注:これを書いたのは結構昔です)
そのほか、絵を描いたり、歌を歌ったりするのもニガテ。
面白おかしくお話しするのも得意でない。

だから、僕はずっとセンスがないんだと思っていた。
そして、評価されるものはいつもセンスに溢れてた。

センスがないと思っていた僕は、事あるごとにどこかで小さくなっていた。

だけど。気づいた。
自分のことを、自分で褒めるのは、はしたないけれど。
それでも、聞いて欲しい。

僕には、少しだけ思考のセンスがあった。

思い返すと、最初にそれを意識したのは囲碁を学んだ時だった。
僕は高校時代、1年とすこしだけ囲碁を学んだ。独学で。
そして、アマチュア六段の免状を持っている(頑張った)。
その時に使ったのが、磨かれたのが思考のセンスだった。

囲碁では、その枝分かれの数が、人間の理解の範疇を超えている。
だから、面白い。最近はコンピュータの方が上手だけれど。
全てを理解できない人間が囲碁を打つ際に使うのが、感性だ。
「一目千手」
プロ棋士が一瞬で読む手の数を自らそう評したが、実際はもっと多い。
時と場合によるが「次の3手」くらいは一瞬で見えることも多い。
中盤で150手の可能性があって、「次の3手」が瞬時に読めたら150*149*148で約330万手をみている。
そこから、一つを選んでいる。もちろん全部を見るわけでなく「感性」が教える少ない候補から選ぶ。
思考のセンスが必要だ。
今はすっかり忘れているが、当時はあやふやでつかみどころの無い局面こそに、自信があった。
感性なら負けないと思っていた。
この思考のセンスは囲碁をやることで磨かれたと思っている。

僕は高校時代、偏差値が分からなかった。
偏差値の順番にいい大学だと言われて、さっぱり分からなかった。
理屈は理解しても、分からなかった。
この「さっぱり分からない」と思えたところが、センスだ、と今は思っている。
実際、偏差値は全てではないのだから。それをきちんと感じ取っていた。
その感じ取った何かに、ちゃんと身を委ねたところがエライ(自分で言うやつ)

いま、数学を研究している。
計算能力、証明能力。全然足りない。
テーマ選びのセンスで戦っている。
テストだけなら、僕よりずっと優秀な人がたくさん、たくさんいる。
それでも、数学の研究ではちょっと評価されたりもしている。
果たしていつまでもつのか、どきどきもしている。

この感覚を磨くのに、ひとつ大事だと思っていることがある。
自分で選んで、そしてその選択に身を委ねることだ。
これはかなり、勇気がいる。失敗もする。
なるべく若いうちに、出来るだけ「選択と失敗」を繰り返すといいと思う。
若いうちなら、ほぼノーダメージだ。
確かに傷ついたり、凹んだりするけれど
少し年をとるとわかる、若い時のそれはほとんどノーダメージだ。
と言っても、いま、30代前半。今の僕でもせいぜいプチダメージだ。
どんどんやる気でいる。
多分あと10年もしたら、結構痛いんじゃないかと思っている。
それでもやる気でいるけれど。

自分の理解の範疇を超えた選択のなかから、何かを選ぶ。
そんなセンスがある。ただ、それだけを言いたかっただけなのに、アホみたいに自慢してしまった。
この辺のところは、本当にセンスがない。

2020年4月4日土曜日

がんばってマスク・手洗い・いろいろ自粛

「がんばってマスク・手洗い・いろいろ自粛」というのはちょっと危険だ。
人は、必ず「がんばれなく」なるからだ。
一ヶ月ならば「がんばれる」。
けど、おそらくこの騒動は最低半年、個人的には数年単位で続くと思っている。
その期間、頑張り続けるのは不可能だ。
とくに、マスク・手洗い・いろいろ自粛は予防だ。全く結果が見えない。

数年間「全く結果が出ない努力」をしたことはあるだろうか?
奇しくも数学は"そういう"分野だ。
僕が初めて論文を書いたのは、修士2年間の後、博士課程の1年目の終わり。
約3年、全く結果が出なかった。
人生をかけた挑戦だと思っていたのに、徐々にがんばれなくなって、
それが、自分の弱さに見えて、とても辛かった。
今は少し分かっている。人は、必ず「がんばれなく」なる。
だから、「がんばれなくても、続けられる」よう
「自分改革」を少しずつだけど、ずっとやっている。

「いかにして続けるか」
それをいま「がんばって」考えるといいと思う。
繰り返すけれど、この状況に「年単位で対応する方法」が必要だ。
楽に、楽に。できたら本来の目的とは外れた、別のモチベーションもあったらいい。

僕は気楽に
「遠隔授業の技術というのは面白いおもちゃだなー」などと
遊びながら楽しく生きているが、決して舐めている訳でもふざけている訳でもない。
数年続けるということの難しさを少し、知っているだけだ。

「数学の役に立ち方」というのはこう言う経験もあると、こっそり思っているのです。
なんでもそうかもしれないけどね。

2020年3月28日土曜日

遠隔授業と肌感覚

遠隔授業の担当になった。
Zoom 委員。ズームインだ。

授業はできる。課題のやりとりもできる。
きっとなんとか回るだろう。
工夫次第では、通常の授業ではできない面白いこともできそうだ。

ただ。考えれば、考えるほど、僕は対面授業が好きだ。
立場上、演習の授業が多い。基本的には問題をみんなで解いてもらう。
ワイワイ話しながらできるのが「大学」という場所のいいところだろう。
目の前にいるからこそできる、無駄な話もきっと大事だろう。
僕はいまだにパソコンなどの画面からあまり情報を頭に入れられない。
結局、板書や紙でないと頭に入らない。

だから、これは応急処置だ。
一つの空間にいられるのならば、それに越したことはない。
でも、応急処置がいま、必要だ。
だから、やる。

遠隔授業は独学と近い。
もちろん質問はできるのだけど、それでもどうしても「居る」空間が違う。
独学だったら、動画を見るより本を読んだ方が本当は効率がいいと個人的には思う。

このブログにも何度か書いたけれど、
数学の基礎の多くを独学した僕が苦労したのが「肌感覚」だ。
最初は何が問題なのかさっぱりわからなかった。
努力の量なら、なかなか負けていなかったけれど、それでもうまく結果が出なかった。
僕に足りていなかったのが「数学を学ぶ場」に長く居ることによる「肌で感じる感覚」だった。ワイワイガヤガヤ、みんなで一緒に問題を考えるような時間が足りていなかった。
正直、今でもそれは感じている。
なんとかごまかしているけれど。

だから、どうか知ってほしい。
遠隔授業では伝わらないものがあることを。
これは、応急処置で、便利だけれど
全部が終わった後に「これでいいや」とはならないでほしい。

最初は舞台があって、映画ができて、テレビができて、インターネットができて。
どんどん後に続くものが下火になってきても、
なくならないのはちゃんと価値があるからだ。
きっと同じだろう。
いったん対面授業はかなり減ると思うけれど、これは残すべき大切なものだ。

これだけを書いておきたかった。
これを書いて、今は全力で、遠隔授業を進めていきたい。

2020年3月21日土曜日

なぜ大学で数学を学ぶのか

博士課程2年の時にオープンキャンパスで配るように書いた文章。
手直しをしたい箇所も多々ありましたが、恥を忍んで、勢いを尊重して、そのままの文章でお送りしております。
=======
大学に入ってまで数学を勉強する意味があるのだろうか?
大学で数学を勉強しようかと考えている人は当然持つべき疑問であるし,
逆にこの疑問について全く考えずに数学の門を叩いてもらっても少し困る.
ただ,これから僕がここで話すのはまっすぐに純粋数学を志す人向けではない.
純粋数学がもつ奥深さ,そして「純粋さ」はそれ自体人生をかける価値があると思うし,
「数学者」として成功し,生きて行けたらそれはそれはすばらしい事である.
でも,最初からそれを目指すのは勇気がいる事だし,それができるのは最初の``なぜ"は
頭に浮かんでも,立ち止まる事無く走り抜ける事ができる人だったりする.
普通の人はそこまでの覚悟は持てないんじゃ無いかと思う.それでいい.
今回は,数学が好きで勉強してみたい,
けど,普通に社会に出る事も選択肢として考えている,
そんな人に向けて僕が思う「大学数学を勉強する意味」について話をしてみたい.
登場人物は「ジャグリング」と「組みひも群」だ.

本題を始める前に,少しだけ数学が「どんな風に使われているか」について話したい.
高校生になって,微分積分を学ぶ.
きっとこれが,たくさんの「数学嫌い」を生み出したのではないかと思う.
けど,この微分積分学が世の中をひっくり返したのも事実.
全ての電気を使った道具は微分積分のおかげで,
発明されたと言ってもたぶん,過言ではない.
微分積分学が応用されて行くその過程で例えば虚数 $i$ の実態も見えてくる.
英語で言うと「imaginary number」,直訳すれば「想像上の数」.
$x^2+1=0$ の解が欲しかったために,はじめは``存在しないもの" として導入された.
しかし,例えば,飛行機等の制御を行う際,
対応する微分方程式とよばれる式の解として複素数はあらわれる.
「制御」をする際,僕らができるのは基本的には``係数" を変える事,
そしてその結果として解を制御する事ができる.
解がある複素数で表される領域に入ったとき,飛行機等の「動き」は安定する.
この領域は複素数が無ければ理解できなかったものである.
想像上の数として表された虚数を導入する事によって,
実際の運動する物体(飛行機等)の動きが``見える"ようになる.
現実の物体との関連性が理解できた事で,
複素数が確かに「存在」し,そして役に立っているという事が分かる.
数学は様々なところで役に立っている!
この便利な数学を是非大学レベルで勉強してみよう!
と,謳って説得力があれば良かったのだけど,残念ながらこの主張には穴がある.
数学がいかに世の中で使われ,様々な謎を解明し,人々の生活を支えているか.
それが知りたいと,そう思うのならば向かうべき道は工学であって数学ではない.
ここまで書くと数学の先生になるとか純粋数学を研究するという目的以外に
数学科に進む意味はないようにも見える.
でも,ある.
たとえ大学卒業後,企業に就職し社会に出る事を念頭においていたとしても,
数学科に進む価値は,ある.

きっと数ある理由の中の一つであろうが,
それをボールジャグリングと数学との関連を見ながら説明したい.
ジャグリングというのはお手玉,たくさんのボールを同時に投げていろいろな技を競う遊びだ.
一見,この中に数学を見つけるのは難しい.
しかし1980 年代にサイトスワップと呼ばれる,
技の「リズム」を記述する方法が発見された.
簡単に言うと「ボールが空中に放られている時間」を数字で記述していく.
基本的にはボール$3$個の基本スタイル($3$ボールカスケードと呼ばれる)の高さにボールを投げると「$3$」,
ボール4個の基本スタイル($4$ボールファウンテン)の高さにボールを投げると「$4$」,
ボール$n$ 個の基本スタイル($n$が奇数なら$n$ボールカスケード,
$n$が偶数なら$n$ボールファウンテン)の高さに
ボールを投げると「$n$」.
「$1$」 と 「$2$」 だけ少し特殊.
「$1$」はボールを投げずに反対側の手に手渡しする事を,
「$2$」はボールをそのまま保持する事を表す.
結果として$n$が偶数ならば「$n$」として投げたボールは投げたその手に,
奇数ならば反対の手に帰ってくる事になる.
こうしてジャグリングの技一つに対して数字の列(「333」や「441」等)が対応する.
この数字の列によって,ジャグリングの技を種類分けする事ができる.
これは,ジャグリングの中に数学を見いだす画期的な理論で
これによって新しい技の開発等も活発に行われた.

しかし,サイトスワップは技のリズムを記述する``言語" であり,
同じリズムを持つ技を区別する事はできない.
それをさらに区別しようと思った時,
僕らの研究室のメインの研究テーマ「トポロジー」が活躍の場を得る.

トポロジーとは19世紀の終わりから20世紀の初等にかけて
数学者アンリ・ポアンカレ(Henri Poincar¥'e) が提唱した新しい幾何学である.
「柔らかい幾何学」とも呼ばれるこの分野は,
高校まで勉強してきた直線や円などを扱う幾何学(ユークリッド幾何学と呼ばれる)と
記述しようとする対象が異なる.
ユークリッド幾何学では,主に線分の長さや角の角度等を計算した事かと思う.
たった一本の補助線が謎を一瞬で明らかにする様子等を楽しんだ人も多いはずだ.
話の本筋からはずれるけど,こういった「楽しさ」は非常に大事.
そうやって,ユークリッド幾何学はいろいろな図形の「量」を調べる学問だった.
それに対し,ポアンカレは全く新しいアイデアを導入した.
いろいろな``もの" がゴムのような柔らかいものでできていると考え,
それをグニャグニャ動かしても良いとしたらどんな事が分かるのか?
最初は取っ付きづらいかもしれない.
トポロジーでは円も3角形も4角形も3141592角形も全部``同じ"だと思うことになる.
互いにグニャグニャっと変形して移り合う事ができる.
トポロジーではそれでも残る``共通の性質"を研究する.
円やその他多角形を平面の上に書けば,平面を``内側" と ``外側" に分割する.
この性質はどんなにグニャグニャっと変形しても変わらない
(直感的には明らかなこの「定理」を「証明」するには,大学3年生レベルの数学が必要!! もちろん今は気にする必要は無い).
変形の過程で保たれないもの,長さ,角度,面積,etc. などの「量」はトポロジーの世界では意味をなさない.
それでも残る性質,形の量ではなくて「質」を研究するのがトポロジー.
たとえ話をすると,高校までの幾何学が人間一人一人を見ながら,
背が高い,足が速い,イケメンだ,
そんな事を議論していたのに対して,トポロジーは
「でもみんな同じ人間ではないか」と,
そうして人間みんなが共通して持つ性質に着目しようと言っている(と僕は信じている).
トポロジーは幾何学に新しい視点を与えた.

この「柔らかさ」がジャグリングの技をさらに区別して行くのに有用である事が分かる.
確かに,ジャグリングでは投げられたボールの正確な高さ(床上147cm だ!みたいに)や,
手から離れて行くボールの正確な角度などで技を区別しない.
ジャグリングと強く関係が見られるトポロジカルな対象が「組みひも群」だ.
「群」と言うのは一つの代数的な概念で大学数学で習う,が今回は説明を省く.
図 $1$ のような上と下が固定され,上から下に流れて行くひもを「組みひも」と呼ぶ.
このようなひもの``絡まり具合" を研究するのが組みひもの理論.
一見,ジャグリングとの関係は無いように見える.

図1

しかし,組みひも群には「平面上の粒子の運動の軌跡」という別の解釈がある.
時間軸を高さ方向にとり,粒子の運動を追いかけて行くと確かに組みひもが得られる.
ジャグリングにぴったりだという事が分かっただろうか?
ボールを投げている人の目の前に``平面" が存在し,
その上のボールの動きを追いかける事によって
組みひもを得る事ができるのである.
そしてこの組みひもを使えば,
サイトスワップでは区別できなかった技を区別する事ができ,
さらに技同士の関わり等も見えてくる.
具体的な技や対応する組みひもは文章や図ではどうにも説明がつかないので,
実際にポスター発表を見に来て欲しい.
来る時間がなくとも,アイデアさえ分かってもらえたならば
きっと動画サイトでジャグリングの技を見ながら対応する
組みひもを見つける事ができるはずだ.

数学なんて何の役にも立たない,勉強するだけ無駄だ
という意見を少なくない回数,耳にする事がある.
数学に限らず,学校で習うような基礎学問は直接の応用はなかなか見えてこない.
けれど,もしこの世の中に組みひもの理論が無かったら,
組みひもとジャグリングの技の関係性を見いだすのは至難の業だ.
社会に存在する様々な問題についてもきっと同じ事が言える.
もし,大学以上でならうような数学を理解していなければ,
直面している問題の中にある「数学」を見つけるのはよほどの天才でない限り無理だ.
理論というのは「構築」することが「理解」する事よりずっと難しい.
けど,天才達が作った理論を理解する事は僕らにもできる.
そうして,「レベルの高い数学」という目を持っていれば,
社会にでて直面した問題の中に「数学」を見いだし,
驚くような本質をつかむ事ができる可能性がグンと大きくなる.
工学部で習うのは「誰かが見つけてきた数学」だ.
大学で習うような数学をキチンと理解して,
数学を探すその心さえ失わなければ,
きっと「誰も見つけた事の無い数学」が見つけられる.

どうだろう,少しでも「面白そう」と思ってくれたなら嬉しい.
でも,本当に大事なのはやっぱり,数学が,考えるという事が,大好きという気持ち.
この話で伝えたかったのは,数学科に来たり情報科学科に行って数学を専攻しても,
将来の道が狭くなるなんて事は決してないと言う事.
不安に負けて,我慢して,安定を求めるんじゃなくて,
自分の好きな事に思いっきりチャレンジすれば,
きっと,思いもよらない道がどんどん開けて行くと思う.

Enjoy your life.
正井 秀俊

2020年3月14日土曜日

こどく

誰もやっていないことをやる。
自分にしか、できないことをやる。

それは、孤独だ。

一緒に話す仲間もいない。
誰にも理解されない。

苦しい。

なるほどな。
世の中が発達して、沢山の人が「自分だけの道」を目指せるようになった。
だから、いま、苦しむ人が多いのかもしれないなと思った。

少し前までは、個性なんて悠長なことを言う暇はなく、みんな一緒に、みんな同じ方向を向いて、みんなで一つの目標に向かうことしか、できなかった。
チーム一丸。日本が、世界が、一つになって。

素敵なストーリーも生まれていた。

それが、いま、個性に重きをおけるようになった。
みんな違う。みんな、それぞれ、良さがある。
認めることができるようになった。きっと、良いことだろう。

だから、たくさんの孤独も、生まれた。

一緒に話す仲間もいない。
誰にも理解されない。

一方で、インターネットの波に乗り、一気に広まる価値観もある。
みんな違う。みんな、それぞれ、良さがある。
そう信じていたはずなのに、あいつは多くの共感を得て。
そして、自分は。

一緒に話す仲間もいない。
誰にも理解されない。

いま、生まれた苦しみなんだ。
限られた天才の悩みだったものが、ぼくら庶民のところに降りてきた。
これまで、どの時代にもなかった出来事だ。
だから、誰もその解決方法を知らない。
だから、僕らがその答えを必死で探すのは、きっと意味があることなんだ。
見つけるのは、僕らだ。
見つかれば、きっと。

2020年3月7日土曜日

一人で数学に憧れていた時に元気をもらっていた本、動画

先日の記事(一人で数学を学んだ時の覚書)でも書きましたが
僕は田舎でひとり、数学に憧れていました。
その時に元気をもらっていた本や動画を少しだけ紹介します。
お出かけしづらいならば、本を読めばいい。
リンクを貼ったのでクリックすれば関連ページに飛べます。

100年の難問はなぜ解けたのか―天才数学者の光と影―
ポアンカレ予想を解いたペレルマンが主役?の本。
ペレルマンは捕まらないので、ポアンカレ予想に関わった多くの(超一流)数学者へのインタビューがたくさん。あとがきの最後の一言が好き(ぜひ読んで)。
(幾何化予想に関するこの記事はかなりこの本に影響を受けている)

若き数学者への手紙
数学者が、数学を志す女の子、メグに向けて数学の面白さ、価値を伝える手紙をまとめたもの(実際に送った手紙ではなく、おそらく「そういうスタイル」の本)。
幼いメグに向けたものから、だんだんと成長していくメグへ、数学者として生きる楽しみや、ちょっとしたコツなどがとても良い語り口でまとめられている。


動画(こっちは数学は直接関係ないけれど、この二つの動画に大学生の時に出会えたことはとても幸せであった)
「最後の授業」ランディ・パウシュ
余命半年を宣告された、超人気教授(バーチャルリアリティが専門)が、最後に伝えたいこと、というテーマで話した1時間の講演。正直、一つの映画をみるより、おすすめ。「夢を叶える」とは?壁にぶつかった時、どう乗り越えたか?「人生が終わるその瞬間まで、楽しむことをやめない」かっこいいですよ。

スティーブ ・ジョブズ・スタンフォード大・卒業式スピーチ・2005年
こちらはとても有名な動画。ぜひ上の動画と合わせてみてほしい。
どちらも、「死」の裏返しとしてみることで、生きることを、本当の意味で生きるとはどういうことかを強く考えさせてくれる。

これらに影響を受けて僕はよく問いかけていた。
Do something to Live? Live to Do something?
人生は一度きりである。どう生きるのか。
人はいつ死ぬかわからない。今日と同じ明日が来る保証はどこにもない。
そんなことを強く意識させるこのご時世に何を考えるのか?
きっと、大事だと思う。

2020年2月29日土曜日

ゲストハウス

なんでもない日が、よいですよね。
少し昔の、日記です。
======================

ものすごく久しぶりに、日記を書いてみます。
自分の専門分野に近い、国内の研究集会が京都であったので行ってきました。
海外から招待講演で来ていた2つ年上の人に数学的に圧倒されたけれど、なんだか元気が出たので、ぼくもまだ枯れてはいないようだと思いました。

さてさて、今回はたまたま「大学の近く」で検索したら、ゲストハウスが引っかかったので、ゲストハウスを初体験してきました。

簡単に言うと「ホームステイ」といった感じ。
けど、ご飯とかは特に出てこない。(と、HPには書いてあった)

入り口を入るといきなり居間。
ひげもじゃの人がゴロゴロしていた。

荷物を預けて、ひとまず研究集会へ。

帰ってくると、ひげもじゃさんの友達の女の子がいる。
リビングでネットをしていると、女の子は料理を始め、ひげもじゃさんはコンビニに買い出しへ。

料理をしながら
「名前は?」
「あ、まさいです。」
「ふーん、ん?それ名字?下の名前は?」
「ひでとしです」
「じゃあ「ひで」だ。私は「なお」、これ食べる?」

頂きました。
なんだか、何かの物語に入ってしまったような感じがするくらい、新鮮な感じがしました。
伝わってるかわかりませんが。。

「ひではいくつ?」
「あ、25です」
「私は22」
「えぇ!」
「どういう意味かな?」

いきなりため口で始まる会話にはやっぱり慣れません。
・・・年下だったとは。

ひげもじゃさんのあだ名は「もじゃ」でした。


クラブWCの試合があると、大きめのテレビがあるので近所に住んでる人とかも集まってくる。


「つえー、けどバルサちっちぇーなー」
僕「コーナーとかあれば面白いよね」
「だよねー」

見知らぬ人とサッカー見ながらそんな会話。

台湾の人もいた。英語をしゃべったので少し話した。
サッカーで日本の柏が負けていたので、「お祈りしなきゃね!」とか言ってくる。
見てると、PCに向かってお祈りしてるので、何してるかと聞くと
「今、女の子にデートの申し込みをしたんだ。僕らはお祈り仲間だ」
いや、僕は別に祈ってない。

同い年くらいに見えたのに、38歳といわれ衝撃を受ける。

おじちゃんとかもいるし、泊まっているけど、個室にこもって全く出てこない人もいる。

誰が、何をしても、何をしてる人でも、迷惑さえかけなければおこったりしない。
無理に干渉したりもしない。

ただ、出会いを楽しみ、その時を楽しむ。

ゆっくり流れる時間。

初めて体験した不思議な空気。文章にしておきたかったのでした。
ゲストハウス、僕はおすすめです。

今度の研究集会でもゲストハウスに泊まろうかとも思っています。


こんな感じであんまり人前に現れてないですが、生きてます。
飲みに行ったりしたい気分なので、時間がある人いたら是非。

まさいでした。

2020年2月15日土曜日

迷い

ひとは、迷う。
ぼくも、迷う。

お昼、何食べよっかな。
今日、何を着よっかな。
明日、どこ行こっかな。

何を勉強しようかな。
どの大学に行こうかな。
どんな数学をしようかな。

何をして生きていこうかな。
人生の、目標?

数学の価値とは?
生まれてきた意味とは?

悩むのは大事なことだ。ぼくも、そう思う。

ただ最近、ちょっと気になる。
びっくりするぐらいに、共感の時代だ。

わかるー!
そうそう!そうだよね!僕もさ・・・

こんな感じで居ると、多くの人に好かれると誰かが発見した。
そして、悩みは、容易に共感を生む。
「だから」悩んでいる人がいるように見える。

そのままでいいよ。
答えなんていらないさ。

悩んでいる人に言葉をかけて、"優しい"コミュニケーションの出来上がりだ。
かんたんかんたん。
そんな優しさを求めて、悩んでいる人がいる、ように見える。
それもたくさん。
悩むことが、その先の共感が目的の、いわばプロだ。
プロ迷い人たちは、決して答えを出さない。
答えを出したら、悩みに"共感"して一緒にいてくれる人たちが離れていく。
敏感な彼らは、しっかりそれを知っている。
だから、決して答えを出さず、出そうともせず、悩む。プロとして。

悩むことは大切だ、悩まずに決めた答えは、浅くなる。
でも、悩むのは、答えを出すためだ。それは忘れちゃいけない。
そして、答えを出すことは、そのほかを、捨てることだ。
怖い、勇気がいる。苦しい。
「だから」悩むんだ。

それでもさ。
逃げないで、向き合あうんだ。
答えを出すために。
きっと大丈夫だから。
答えを選んだ結果、離れる人はいるかもしれないけれど、その選択から生まれる出会いも必ずある。一緒に悩む友達は大事だ。でも、答えを出したら離れていくようなら、それは、そういうことだ。自分の出した答えと一緒に生きていける人も、いつかきっとみつかるだろう。

寄り添うことも優しさだ。
けど、優しさは、それだけじゃない。

覚悟を持った答えをきっと僕は見たいのです。


いや、わかるけどね。大変だし、ひとはそう簡単に決心できないし。
答えを決めるのは怖いし。

こういうのが、世に溢れすぎではないかい?
と思った話でした。


2020年2月8日土曜日

ほこり

僕のアパートには大量に存在する。
僕の中にはあるのだろうか。

僕の守るべきものは、何?
浮世から離れたいのか、そうでないのか。

今日は誰とも会話をしなかった。
その代わり、たくさん自然と戯れた。

そして、少し、何故、数学が美しいと言われるのか、その理由を何となく感じた。

自分が今まで口にした「美しい」は本物でないことが分かった。
自分の立っている場所が一歩分変わった。

前進?後退?それとも、かわってない?
「?」がたくさん。

「何故」

これを、色々なものにぶつけるとわけが分からなくなる。
けど、ぶつけることをやめてはいけない、
そう、強く思う。

とりあえず
大学に入った時と、今では、僕は違う。
これだけは間違いない。

良くなった?悪くなった?それとも結局変わってない?

わからないけど、
今の自分は今の自分を気に入っている。

それでいいか。

今日の筑波はとても涼しい。
今、僕はとても心地よい。

それでいいか。

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書くことが見つからない時に、むかしの文章を探してくるシリーズ
大学4年生、たぶん。

2020年2月1日土曜日

一人で数学を学んだ時の覚書

・現在東工大助教
・学部は筑波大工学部
・20歳までは線形空間がわからなかった
・学部3年から、少しずつ数学に興味を持つ
・学部数学はほぼ独学
・大学院から数学の研究室へ
・ちゃんと5年で学位をとりました

大事なこと
・転学は不可能ではない
・容易でもない

学部3、4年生のときにやったこと
・主要な大学のシラバスをみて、3年生の授業の「参考図書」で自分に合うものを読み漁る。
・日本は、日本語の文献で学べる素晴らしい国。参考図書は大抵、すごくいい本。

本の読み方
全ての命題、補題、定理は
i) 最初に自分で証明を考える
ii) 証明を読む
iii) 定理の主張だけを書いたメモを作る
iv) 翌日、iii) で作ったメモにある定理を「本を見ずに」証明する。
v) できなかった定理はii) から、iv)でできるまで繰り返す。

定義はメモらない。証明を元に再構成する。



工夫したこと
・定期的にエネルギー(糖分など)をとる(そうしないと、一日持たなかった)
・一日は朝(昼ごはんまで)昼(晩御飯まで)夜(寝るまで)の3つに分けて、少しずつやることを変えていた。
・なるべく毎日場所を変える(自宅、図書館、研究室などなど)。そのほうがよく集中できた。(これは人によるかも)
・ちゃんと正しい時間に寝る、起きる、食べる。生活は規則的になれば、起きる、食べるなど、「意外と大変な」行為に必要なエネルギーがだいぶ節約できます。そのエネルギーは数学に使うべき。
・歩く(大学まで徒歩30分ほどでちょうどよかった)
・携帯の通知は全て切る(バイブもダメ、本当は捨ててしまえと思っている)
・たまには、友人と会って話をする(一ヶ月誰とも話さないと、日本語を忘れます。今の時代、一人でできることは本当に限られています)
・あこがれを持てる数学者・科学者の伝記などを読む。(元気が出ます)
・目標は、3段階ぐらい背伸びしてでも、高く持つ。
・世界中の天才が、今こうしている間にも努力している。
・ただ、焦りは禁物。一歩ずつ進む。山の頂をばかりを見ていると、途方もなく感じ、元気がなくなるが、一歩ずつ踏みしめることに集中していると、いつのまにかたどりつく。らしいですよ。

独学はすごいと(たまに)言われるが、
あの時、僕は「人生をかけていた」。
数学は、命懸けでやれば、きっとわかる。がんばれ。

2020年1月25日土曜日

ゆるし

何かを学ぶことは、楽しいことだ。
楽しいことを続けていたくて、それで研究者を目指した。

いま、曲がりなりにも、研究者。
楽しいことをしている。
もっと言うと、どうしても、自分がもたないこともあり、
楽しいことを、楽しいように、やっている。

カフェで、海辺で、公園で。他にも色々。気ままに出かけて考えている。
時折、サボったりもする。
のんびりすると、いいことがあると知ってしまって、サボっているのか、実は必要なのかわからない時間を過ごす事もある。
最近は数学そのもの以外にも、「数学とは」とか「数学の価値、意味」みたいなことも、しばしば考えたりする。「持続可能な数学」とか。
これは、サボり?
のんびり好きなことを考えている。
良いなー、素晴らしいなーと思う一方で、とても気になる事もある。
給料は税金からもらっている。

良いのかなー、と思う。
価値があると、いう、設定になっているから(設定とか言っちゃう)だろうけど。
本当かなー、と思う。

一方で、だからこそ、できる思考がやっぱりあるなとも思う。
世間からの人気とか、評価とか考えなくていい。

いや、本当は、考えた方がいいのかな。
実を言うと、最近、少しずつ人の目が気になるようになってきた。
なかなか合わせることはできないけれど、一つ、できるようになったらいいなと思うことがある。
じっくり考えたことを、とっさに引き出せるようになりたい。
これができると、世間に多少顔向けできる気がしている。

ずっと不思議だけれど、例えば「ブログのネタ」みたいな、ざっくばらんなことについて考えたことを、僕はすぐ忘れてしまう。結構色々考えているのだけれど、忘れてしまう。メモをとるように、ここに書く事も多い。
考えた数学はなかなか忘れないけれど、他のことは簡単に忘れる。
ただ、世の中の人と数学を話すときは忘れがちな思考の方から言葉を探した方が、どうやら届く。会話が終わってから、しばらくたって「あー、そのこと、すごくしっかり考えて、答え持ってたじゃん」と思うことが何度もある。
まだまだ経験不足で、場数を踏めばよくなるのだろうか。

と、こんなことを考えるのも、サボりかな。
えーっと、うん、許しておくんなまし。

2020年1月18日土曜日

幾何化予想

僕の研究しているトポロジーは「柔らかい幾何学」とよばれる。しかしながら、幾何学と呼ばれてはいるものの、トポロジーの肝は形の「幾何」を忘れることにある。この「忘れる」という考え方が、数学において本質を掴むために大事な操作の一つである。例として「1+1」と「2」という二つの表現について考える。1+1という表現は2がどうやってできたか、すなわち2の成り立ちについての情報を持っている。何かが一つ、他に何かが一つあって、その結果として2を得たと「1+1」は教えてくれる。それは、100÷50でもなく、5−3でもなく、1+1である。単に2と表現するより、1+1と表現したほうが情報の量が多いのだ。その情報を「忘れる」操作が計算であり、1+1を=2と計算することにより、2の成り立ちを忘れる、捨てることができる。「自分にとって本当に大切なもの」以外をすべて捨て、心の底から思い入れがあるものだけに囲まれて生きると、心地が良い。ヨガの哲学からくる考え方を断捨離と言うらしい。数学において、色々な情報を忘れたい、捨てたいと思う考え方はこの断捨離に近い。数学には様々な、「忘れる」技術がある。沢山の情報を忘れ、捨てたあとに「残っているもの」が大切なのだ。トポロジーは、形から「幾何」という量的な情報を捨てることにより、形の本質に迫る数学である。起源はオイラーがケーニヒスベルクの橋の問題を解決するのに、グラフ理論を創始したところにあるらしい。グラフ理論は、つながりの数学だ。ある種の「つながり」に距離は関係がないと、オイラーは発見した。長さという幾何を、捨てたのだ。そうして始まったトポロジーを大きく進展させたのが「ポアンカレ予想」で有名なポアンカレだ。ホモロジーやホモトピーの考え方を発見し、トポロジーを研究する礎を築いた。トポロジーは幾何を捨ててしまっているので、そこから計算できる量を取り出すのが非常に難しい。ホモロジーやホモトピーは、トポロジーから計算可能な対象を取り出す、画期的なアイデアだった。そのポアンカレがどうしても解けなかった問題として有名なのが「ポアンカレ予想」だ。3次元球面はホモトピーの、たったひとことの言葉で特徴付けられると予想したのだ。この問題は、多くのトポロジーの研究者、トポロジストを惹きつけた。約80年の時を経て、ポアンカレ予想に新しい視点を与えたのがサーストンだ。ポアンカレ予想の解決に向けてサーストンが提唱したのが「幾何化予想」である。幾何は形の長さ、角度、体積などの量的な情報を与える。その幾何を忘れることにより、形の「質」に迫ったトポロジー。サーストンは、研究を突き詰めていくと、実は形の本質を捉えるトポロジーが、何か特別な幾何を決める例があることに気づいた。これが「幾何化」と呼ばれる考え方である。ポアンカレ予想は、空間が丸い場合に関する予想だが、「幾何化予想」は全ての3次元空間に関する主張であった。問題を大きな枠組みの一部としてとらえ直すことで、その実態に迫った。トポロジーから決まる「本質的な幾何」があれば、かたちの「質」を「量」で調べることができる。この「本質的な幾何」は、トポロジーを調べるのに有効なだけでなく、とても綺麗であった。「幾何化予想」は、幾何化が標準的な分割のあと、いつでもできると主張している。一度捨てた幾何が、トポロジーの研究の先に、綺麗な姿で、そこにいるだろうと。

2020年1月12日日曜日

めたもん

メタモン、ポケモン。
こいつは、かたちがない。
ただ、であった相手にへんしんする。
へんしんすると、相手と同じ技が使える。
なにものにも、なれる。

数式。$x$とか$y$とか。
こいつは、かたちがない。
ただ、その場その場で、色々なものにへんしんできる。
ひとたび、へんしんすると、
驚くほどぴったりはまる、ことがある。
なにものにも、なれる。

ことば。
こいつは、かたちがない。
最初は音だけ。
ただ、まわりにあわせて、積み重ねて
多様なかたちに、へんしんできる。
知っているはずのことばが、新しいへんしんをしたとき、嬉しい。
なにものにも、なれる。

メタモンが、へんしんしたあと、その強さを決めるのは、もとのメタモンのレベル、経験値。
メタモンを鍛え上げておくと、へんしんしたあと、強い。

数式が、へんしんしたあと、その効果を決めるのは、その数式から積み上げられた理論、その深さ。
数学を鍛え上げておくと、へんしんしたあと、強い。

ことばが、へんしんしたあと、その力強さを決めるのは、そのことばに対する理解、思考。
たくさんの背景でそのことばに触れて考えて、鍛え上げておくと、へんしんした後、強い。

みんなにている。
数学は共通点の学問だと思っている。
きっと、これも数学。

2020年1月4日土曜日

かたちのおとの、おもちゃ

マーク・カッツが1966年に提唱した
「太鼓のかたちが聞こえますか?」
という問題について考えている。

考えていると言っても、この問題には
すでに様々な回答が知られている。
とても印象に残る問いかけで、多くの人が研究してきた。
数学の研究として、(虎視眈々と目は凝らしているが)新しい貢献を見いだすのは容易ではない。
ただ、とても面白い。

素敵な問いかけだ。
数学の言葉に直すと
「ラプラシアンの固有値のスペクトラムは幾何を決定するか?」
となる。
これだと、もちろん数学的には面白いと感じるが、なかなか心には残らない。
ラプラシアンの固有値のスペクトラムはフーリエ変換により、音に対応する。
かたちの発する音を聞いて、かたちが見えるか?という問いに言い直したのはとても偉いなと思う。

問題を理解するのによい、簡単なモデルのことを
よく Toy Model という。おもちゃで遊ぶのだ。
今日は、「かたちのおと」を理解するのに良い
おもちゃについての、おはなし。

考えるのは、直線の上の有限個の点だけ。
例えば、$\{0,1,3\}$という点を考える。
外側を忘れて、$0$を$3$の間だけ考える。
これを、長さ$3$の弦だと思う。ギターなどの弦。
太さや素材などをひとつ、これと決める。
はじく。びーん。
弾いた時の音を決めるのは何か?
長さだ。
音楽でも理科でもきっと習う。
長さが音を決める。
逆に、("無限"に耳のいい人ならば)音を聞けば、長さがわかる。
だから、「かたちのおと」の話は、ここでは、かたちの長さの話になる。

$\{0,1,3\}$の長さってなんだ。
点と、点との距離だ。
$0$と$1$の距離は$1$。$1$と$3$の距離は$2$。$0$と$3$の距離は$3$。
$\{0,1,3\}$の長さを集めると$\{1,2,3\}$となる。
長さ$1$の弦、$2$の弦、$3$の弦。みんな違う音をだす。
だから、$\{0,1,3\}$のどこか二つを押さえて、
奏でることのできる音の集合が$\{1,2,3\}$という長さの集合で決まる。
この、長さの集合$\{1,2,3\}$から$\{0,1,3\}$という点の配置を復元できるか?
カッツの問題のおもちゃは、こんな問題。

$3$点だと、長さの集合から点配置の復元が簡単にできる。
もちろん、平行移動、それと反転は長さの集合を変えないから
それをのぞいて、ただ一つに決まる。
実は、$4$点でも、$5$点でもそう。
$5$点までの配置は、音で決まる。

それが、$6$点だと成り立たなくなる。
全く同じ音をだす、違うかたちが見つかる。
違うかたちの太鼓を叩いて、同じ音がでたら不思議だ。

こんなことを学んでから、音を聞くのが楽しい。
色々な音がある。大概、みんな、かたちが違う。

兄弟、姉妹、親子。
声が、言い方が、すごく似ていたりすると、驚いたり、楽しかったりする。
かたちも似ていたり、ぜんぜん違ったり。

音のかたち。

明けましておめでとうございます。
今年もよろしく、お願いします。

ちゅー、ちゅー。
ことしのおと。