2017年3月27日月曜日

あらたな

どうして数学を学ぶのか?
数学をやっている人はなんらかの理由を求められます。

論理的思考能力が鍛えられる。
いろいろな技術の基本で応用がたくさんある。
数学は世界を記述する言葉だ。

いろいろな答えがあります。

今日はぼくなりの答えをひとつ。

数学は「公理」とよばれるルールを定め、そこから広がる世界を探求する学問です。
どのように進むのか、「何を」みるのか。
ひとそれぞれ、
好きなもの嫌いなもの、
得意なもの苦手なものがあって、

似たようなひとがあつまって、文化ができます。
それが、数学のなかにたくさん存在する、分野です。

旅に出て新しい文化にふれ、ゆっくり考える時間をもつ。
きっと、たくさんのひとが大事だと認めてくれると思います。

数学も、おなじです。
この探検の良いところは、そのほとんどが徒歩であること。
そしてなにより、世界のどこで、いつの時代にみつけられたものであろうとも、
そっくりそのままおんなじものを見に行けるところです。

あふれる才能と情熱をもつひとがみつけた世界が、そのままのかたちでみれるのです。

もし、その世界が気に入れば、
さらに旅を続けて、

草っ原に出て

だれも見たことのない景色を探しにだっていけるのです。

2017年3月23日木曜日

足りないからこそ

体格や身体能力に恵まれなかったアスリートが、
それでもスポーツで生きていきたくて生み出した技。

顔立ちやスタイルに恵まれなかった役者が、
それでも芝居で生きていきたくて生み出した魅力。

読みの力や計算力に恵まれなかった棋士が、
それでも囲碁で生きていきたくて生み出した感覚。

計算力や記憶力に恵まれなかった学者が、
それでも研究で生きていきたくて生み出した理論。


足りないものがあるからこそ、まわりと違った目線でたどりついた場所。
そこにおもしろい、ステキなものがたくさんあると思うのです。

4つの例は分野は違うけれど、根底に流れる考え方は同じ。


共通している考え方を抜き出すことを抽象化と言ったりします。

2017年3月20日月曜日

1+1と2

「1+1」と「2」は持っている情報の量が違います。

1+1は、「なにかが1つとなにかが1つで2つある」という情報を持っています。


それは、1000/500 でも0.2×10でもないのです。


もし、りんごが1つ、パイナップルが1つあったとして、それらを「足したら」それは
「果物2つ」です。


計算をするということは、情報をすてるということ。
数学には他にもたくさん、情報をすてる、ワザがあります。


どうしても捨てられないものだけをのこして、すてるのです。

のこったものが、本当に大切な「本質」です。


長さ、角度、面積その他、「量」として測れるものを全て捨ててみえるものをみる。

それがトポロジーの考え方です。


2017年3月18日土曜日

草っ原を走ろう

ふかし芋
パン
ケーキ
煮物
チーズ
煮りんご
温泉たまご
ゆでたまご

他にもたくさんありますが、

これらは全部「炊飯器で簡単にできるもの」

です。

炊飯器というのは、
美味しいご飯を手軽に炊ける道具を作りたい、
とたくさんの人が情熱を注いで作られたものです。
結果として、炊飯器は日本のほとんどの家庭にある高性能圧力鍋となりました。
一生懸命がんばった結果、おもわぬ副産物がたくさんうまれる。


これは、数学を始めとする基礎研究が不思議ともおもえるような応用を得るのとにていると思うのです。
いろんな理論に様々な応用がみつかっています。
ひとが情熱を注いだものには思わぬ力があるものです。


そして、「つかいかた」がまだ見つかっていない数学がきっとたくさんあるのです。


一所懸命、ひとつのことに打ち込むと、世界がちがって見えてきます。
ぼくも多少なり、数学をやっていて、見えてきたものがたくさんあります。
これから、新しく得たその目で「世の中」をもっともっとみていくつもりです。


もし、次に何をやるか、どういった方向に迷っている人がいたらぜひ、自分が大好きなこと、を選んでほしい。

役に立つこと、生きていけそうなこと。


それらはもう、誰かが先に役に立てていて、みんながそこで生きていこうと群がる場所です。


人込みでは行きたい方向に進めません。



自分が好きなことに全力で挑んで、
そこで得た「目」で世界をみればきっとできることがたくさんあるはず。


草っ原を走ろう。

またまたまがる

「またまたまがる」という名前は、ぼくの専門の一つである双曲幾何の「双曲」からとっています。

リーマン幾何と呼ばれる幾何の一つです。


そこでは、「直線」、最短距離を実現する線、は「曲がって」見えます。
でも、直線本人は「まっすぐ」進んでいるのです。
実際に曲がっているのは「空間」です。

いろいろな分野を渡り歩いているぼくは、「曲がって」いるように見えるでしょう。
でも、本当に曲がっているのはぼくなのか、それとも。


三十路をすぎてどんどん失われていく青臭さを、精一杯呼び起こして、
むずがゆくなるような、それでも残しておきたい考えを書いていきます。