2018年2月24日土曜日

ろくむし

いま思うと、小学生のときの
ぼくらの遊び場はとても楽しいところだった。

とある、マンションの広場
近所の子供達が集う。

よくいるメンバーは
ぼくの世代を大体真ん中に
上にも下にも2学年ずつくらい
自然と歳の違う仲間ができていた。

当時の2学年は、そのままの比で
いまにすると6、7つ違うくらい。
そんな場所で遊んでいたものだから
ぼくは少々の歳の差を気にしない
上の人からみたらきっと生意気な
そんなひとになりました(すみません)。

そこでの人気の遊びが「ろくむし」
調べてみると、昔からある遊びで
いろいろルールもあるようですが
ぼくらのルールと
ネットで見つかるルールはまるでちがう。

ぼくらの遊び場は狭く
すぐにボールが誰かの家に入ってしまうため
(知らないひとの家にボールを取りに行くのは気まずい)
いろいろな遊びのルールはどんどん変わっていった。
たとえば、サッカーでは
「全力でボールを蹴ること」が禁止だった。
シュートが"強すぎる"と反則でノーカウント
パスをつないだり
ちょっとしたワザを磨いたり
"力を使わず"に、それでいて本気で
遊ぶ方法を考えていた。

たくさんの遊びのなかで
ろくむしが特に印象に残っている。
いま考えるとそれは
ルールに改良の余地がたくさんあった
そんな理由かなとも思う。
ぼくらのルールは、遊び場の地形を
ふんだんに盛り込んでいる。
ルールを作って、遊んでみて
"裏技"がみつかり、しばらくそのまま遊んで
"裏技"の対応策がみつかったり
のっぴきならなくなって
ルールの方をいじってみたり
そんなことを繰り返していた。

この繰り返しは、よく考えてみると
「何かを作る」
そのプロセスそのものだった。

ぼくらはみんなで
「ろくむし」という遊びを
作っていたのだと思う。
楽しいわけだ。

世の中にあるもの
ほとんどがそうだと思うけど
見るより、与えられるより
自分でやってみるほうが
自分で作ってみるほうが
圧倒的におもしろい。

歳も違い、体力も違うみんなが
広さや地形に制約があるなかで
楽しく遊べる場所をつくる
そんな"おもしろい"を知ってしまったものだから
与えられた何かに従ったりする
そんなことに疑問を持つようになったのかもしれない。

数学って、正しければ何をやってもよくて
それが魅力だと思っている。
小さい頃の遊びの延長にも思えている。

聞くところによると
そういう遊び場が減っているらしい。
ぼくらのかつての遊び場も
"遊ぶこと"が禁止されたと聞いた。

ルールがあって、大人がいて
安心して遊べる場所もいい。

ただ、自由に遊ぶってのも
いいもんなんだけどな。

そんなことを思ったりした。

2018年2月17日土曜日

やらかす

白状すると、ぼくはとても"ミス''が多い。

君の仕事はいつも9割までだね。

そんなことをいわれたり。

もちろん手をこまねいているわけではなく
いろいろ工夫はしている。
一度、レフリーレポートで
「この論文には(英語も含めて)ミスはひとつもなかった」
と書いてもらえたことがあって、それは嬉しかった。

ただ、依然、ちょいちょいやらかす。

思い返すと、小さい頃から
"ケアレスミス''って、なんだろう
結構ゆるされてしまっていたなと思う。

本質は理解してるから大丈夫
次からは注意しようね。

その繰り返し
甘えてしまっているようです。

でも、世の中では”ケアレスミス''が
あっちゃいけない場面が多々あって
なんというかそれに対する訓練を忘れて育ってしまったなと。

 一念発起して、ケアレスミスをなくそうと頑張ってみると
 ずいぶん自分は、怠けているということに気づく。
 ミスをしないために、きっと
 やっているひとは
 やっているであろう
 いろいろがあるようです。

なかなか体に染み付きませんがやってみてます。

そうそう。
昔、ぼくは辛いものが苦手で
どうしようもないくらい苦手だったのですが
辛いものしかない国に出張で2週間行くことになって
生きていけなくなったら困ると思って
"修行''して
いまは、辛いものが結構好きになっている。

どうしようもないほど変えられないと思っていたこと
変わるんだ。

きっといつかミスもなくせる、なくす。

2018年2月10日土曜日

わかりやすい

わかりやすい、ブームです。
難しい数学の話を、わかりやすく紹介します。
わかりやすい授業ができます。

わかる、って楽しい。

だから、こそ。
ぼくはそのブームに乗れない。

その昔、中学か高校かのとき
先生があまりに予習なるものを勧めるものだから
事前に授業の内容を勉強していったことがある。

今まで、''知らないこと''に出会えて、わかって、
ワクワクしていた授業が、
"知っていること''だらけになって
とても、つまらなくなった。

たとえ、授業のその場でわからなくても
家に帰って、じっくり考えて、そうしてわかる。
そのプロセスが好きだから。
"いたずらに''わかりやすいより
そのまま、伝えて欲しい。
"いたずらに''わかりづらいのは
もちろん困るのだけど。

ひとつ、お願いをするとしたら、
「わかりたい」と思わせて欲しい。
たとえば、''よくわからない魅力''でも置いておいてもらえれば、
あとは自分でやるからさ。

そんなことを思って、ぼくからでてきたつぶやき。

--
赤ちゃんにとって世界は「わからない」で溢れている。
それでも,嫌になって諦めるのでなく、
「生まれて初めて見る」その光景を少しでもわかろうとした。
どうしても分かりたいと思うほど魅力的だったから。
授業やプレゼンは別にわかりやすくなくてもいい。
ただ、魅力的であればいいんだ。
--

お気に入りなのです。

2018年2月3日土曜日

マルセイユ

マルセイユ、ジダンの生まれたまち。
来るのは2度目です。

早朝にパリにつき、そこからマルセイユ便へ乗り換え。
マルセイユ便では日本人の姿はほぼなく
フランスの方ばかり。

飛行機の中に、朝日が差し込む。
あぁ、フランスだな
誰一人、窓を閉めないのを見てそう感じる。
水平方向からの光で、中の方までまぶしいけれど、
ただ、朝日を浴びている。
体全体が「ぼくのちしお」なのか
朝日のせいか
真っ赤に映える窓際のおじさん。
広げた新聞とコーヒーがよく似合う。

マルセイユについて、集会の会場まで移動。
最寄りの駅までたどり着き、そこからバスの予定。
ところが地元のサッカーチームの試合があり、
なんとバスがほとんど動いていない。

熱狂的なサポーターが爆竹をいたるところで鳴らし
発煙筒をふりまわす。

これは確かに少し怖い。
スポーツは好きですが、ときに野蛮さを感じて
スポーツを嫌がるひとの気持ちも良く分かる。
このあたり、書きたいことがありますがそれはまた後日。

周りのひとの協力のおかげでなんとか無事にたどり着く。

怖かった経験でしたが、サッカーの話は
ヨーロッパの研究者と会話のきっかけに
とても役に立つこともある。
初日の朝、サッカー談義に花が咲き
参加者と仲良くなれて幾分か過ごしやすい。

日仏の研究者が代わる代わる講演。
フランスと日本、似ていて、やっぱりちょっと違う。

大自然の中に、ぽつんと大学がある。
レーゲンズブルグのときにも書きましたが
簡単に''危ない''みちへでれる。

大学から少しだけ歩くと
断崖絶壁に面した散歩道。

みんな気ままに歩いている。
守られていないのは、少し怖い。
すべてが自己責任。
けど、そんなみちを歩くと
"あるいている"実感がある。

自由って、きっとそういうこと。

いろいろと考えることが多かった出発前。
フランスの、数学に、自然に、''危険''にふれて
ひとつ、小さな決意をしたりしました。

何日かに分けて少しずつ書いたので
なんだか話題がフラフラ。
自由って、きっとそういうこと(ちがう)

もう最終日。
いろいろな思いをもって、帰ります。