2019年12月28日土曜日

才能

実家に帰って漫画を読んだ。
「オレに才能なんて無い」
そんな言葉が載っていた。

昔、自分がこれを言っていたことを思い出した。

後ろに、だから努力するんだ、をつけて。

これは、MITで教授をしている日本人の言葉に影響を受けたものだった。

彼が言った言葉を僕も、言った。

「オレに才能なんて無い、だから努力するんだ」


この言葉の後ろに、言い訳が見える気がしてきた。

失敗したとき、僕はがんばった、けど才能が無かったんだ。
そう、言うつもりなのではないか?
逃げ道を残したかったのではないか?
彼はすでに成功している。僕は、まだ、だった。

宣言しよう。

僕には、才能がある。
もし、失敗したなら、それは全て、僕の努力不足のせいだ。


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エネルギーを探していたら出てきた
21歳の自分の文章。ひとまわり。
よいお年を。

2019年12月21日土曜日

線形代数の授業を、しながら考えた。

去年も、同じことを教えたな。
みんな同じように、学んでいくな。
来年、再来年と繰り返されるのだろうな。

人は生まれて、死ぬからなのだろうな。
まったく、人は、社会は、非効率だ。

でも、そんな、非効率が、良いのかもな。
効率を追い求めると、人間味が失われる。
そんなことを、誰かが言ってたな。
無駄なことに、価値がある。なんてね。

それでも、人は積み上げて、
すっごい文化や文明がある。すげーな。

数学は、使われようによっては、いろいろを効率的にする。してしまう。
その学ばれ方に、非効率を感じるなどなど。

絡まってんな。


2019年12月14日土曜日

ハイリホー

背理法というのは、目的の主張が「間違ってると仮定」して、すでに正しいと証明されている事実に"ぶつけて"、矛盾を導く論法である。矛盾は「間違っていると仮定したこと」が間違っているから生じた、つまり目的の主張は正しいのだ、という論法。

論法自体は正しい、だけどこれが「体に悪い」と思っている人が少なからず、いる。
背理法は「正しくない仮定」から議論を始めるので、導かれる主張はすべて「正しくない」。正しくない主張の中で時間を過ごすと、「正しいもの」への感覚が鈍る。いつ自分が正しい世界にいて、いつ自分が正しくない世界にいるのか、きちんと記憶して、分けて体に入れられたらいいのだろうけど、少なくともぼくはそんなに賢くないので、背理法はいつも怖い。正しいものを知るためには、正しい世界にいる感覚を体で覚えるのが大事だと思っている。

そんなことを思って、試験というものに思いを馳せてみた。
間違えると、バツがつく。とてもいやで、気になって、落ち込む。
周りにも言われるし、どうして間違ったかを見直す。次は間違わないように。間違わないように。
ぼくも学生のころ、そうやってきた。
いつも正しいのか、不安だった。

本当は、「正しいとき」に重きをおいた方が良いのではないかと思い始めている。
自分が正しい議論をしているときに、きちんと「正しい」と信じられること。
これが、とても難しい。でも、本当に大事。
この訓練が、おろそかになっていないだろうか。
演習問題に答えが欲しいと言われる。
ただ、多くの本に答えが載っていないからこそ、「自分が正しい」状態がどういうものか、訓練ができるのではないかとも思う。

正直、僕自身まだまだできていない部分が多い。

だけど、数学に限らず、何かを自分でやろうと思ったら。
なかなか認められないこともきっとある。
正しいと、信じられる何かを持っていることは大事だろうなと思う。

2019年12月7日土曜日

小さな

「ごめんなさいね。パン一つ落としてしまって。ご馳走様でした。」
「あ、そうでしたか。有難うございました。」

近所の、小さなカフェの店長さんと仲良し。
「いつも素敵なご家族なんですよ。」
店に一人残った僕に話しかけてきた。
「確かに、いい雰囲気でしたね。」
「最後の一言、お店としてはとても嬉しいんです。」
「パンですか?」
「はい、やっぱり一つだけ残っていると、色々と考えてしまうので。」
「ああ、なるほど。そうですよね。」
「いい、ご家族なんですよ。」

嬉しそうだった。
路地裏にある、小さいカフェ。
気に入って、結構な頻度で通っている。

小さなカフェが一つあって、
それがきっかけで
街の中に暖かい時間ができる。

こんな「カフェ」みたいな場所に、数学があったらいいかもなと思っている。

小さな数学が一つがあって、
それがきっかけで
心の中に暖かい時間ができる。

こんな風にならないかな。
うん、ならないか(笑)

2019年11月30日土曜日

やすみ

なんだか世間は大変で、有休を使わないといけないらしい。
そんなことを言われて、そういえば、
今週1週間は、まるっとお休みをとっていた。

それを思い出した金曜日は大学へ行かなかった。だけど、それまでは、いつものように大学へ行って、いつものように過ごしていた。

お休みの日は何をしてるんですか?
たまに聞かれるけれど、いつも、いつも通り過ごしているので、なんとも返答に困る。

今日が人生最後の日だったとしたら、今日これからやろうとしている事は、本当にやりたいことかい?

そんな問いかけをみたことがある。
なんとも極端な、と思う。だけど、答えは多分、はい。

それでいて、同じ日々をずっと続けたいかと問われると、うーん、自信がない。

きっと、同じなようで、同じ日々なんてないんだろうな。
昨日見た数学と、今日見た数学はもちろん、少し違っている。
進んでいるかは、わからないけれど。
お気に入りの日々を過ごしているうちに、それが少しずつ変わっていく。
その少しずつの違いが積み重なって。
そんな変化が心地良いといいなと思っている。



2019年11月23日土曜日

りんご

りんごを机に置いておくと、いい匂いがする。

一生懸命、頭を働かせると、とてもお腹が空く。
それだけでなく、エネルギー補給を怠ると夕方ごろに"電池が切れる"。
そんなことを発見して以来、研究しながら何かをつまむようにしている。

初めは、お菓子だった。
特に理由もなく、思いついたもの、周りが食べていたものがお菓子だった。
食べ過ぎると、ニキビが大量にできたり、なんとも体調が芳しくなかった。
それでいて、何も食べないと電池が切れてしまう。
難しい。

そんな中、たどり着いたのが果物や、野菜、豆腐だった。
これがとても良い。

夏は、冷蔵庫にきゅうりや豆腐を忍ばせている。
トトロで、きゅうりを丸かじりで美味しそうに食べている様子を幼少期にみて以来、何もつけず、丸かじりで美味しいと思える便利な味覚を持っている。
プリンをたべるような感覚で、豆腐も何もつけずに食べている。

冬。この季節はりんごや、みかん、保存もしやすく食べやすい果物が多い。
その上、机に並べておくと、自然に色にあふれて、楽しい。
りんごは、とても良い匂いがする。
むかし、アメリカにいた際の、僕の部屋の窓辺の写真でもどうぞ。



2019年11月9日土曜日

おみせ

近所のご飯屋さんが9月いっぱいで閉店していた。
そこで食べたり、持って帰ったりできるお店。
ぼくの生まれるずっと前から、続いていたらしい。

そっか、そうだよね。
と思った。

お疲れ様でした。
と思った。


2019年11月2日土曜日

きず

高校の時、音楽の先生が話していた。
生まれながらに、指が4本しかなかった子供のことを。

初めは、親に言われたこともあり、ずっと手袋をしていた。
「どうしていつも手袋をしているの?」
黙り込むことしかできなかった。
どうしても塞ぎ込みがちだった。
自分は、指が一本「欠けている」。
指がない、自分は欠陥のある人間だ。

きっかけを話してくれたかもしれないけど忘れてしまった。
ある日、手袋を、脱ぎ捨てた。
そして、聞かれるたびに説明した。
足が速い人、頭がいい人、背が高い人がいる。
それと同じように、指が4本の人も、いるんだ。
自分がひた隠しにしていた、ちょっと足りない手は
周りの人からすると、気にすることでもなかったみたい。
むしろ、だんだん可愛く見えてきた。

こんな話。
今思うと、創作かなとも思う。どっちでもいい。
僕は、擦り傷ばかりしていた子供の頃を思い出していた。
ガーゼや絆創膏で覆っていると、擦り傷はなかなか治らず、
消毒だけして、そのままでいた方がずっと治りが早かったな。
確かに、まだ血が止まっていない段階では絆創膏などで覆うことは大事。
ちゃんと守ってあげないと、痛いし、色々なところをよごしてしまう。
でも、どこかで絆創膏を取り払い、
自然に晒さないと膿んでしまう。

どこまで守り、どこで"自然"に晒すか。
難しいけれど、ずっと考えていないといけない気がする。
人と人との関わりも、そう。
一応、教育をする立場。
どこまで守り、どこで"自然"に晒すか。
優しく、褒めているのは楽だ。好かれるし。
でも、それだけだと、たどり着けない場所があると思っている。
本当に相手のことを思ったら、守ってあげてばかりじゃダメなんじゃないか。
それでいて、厳しさばかりだと、萎縮して成長が阻害されることも。
多分正しいと思っていることがひとつ。
基準がはっきりしている必要がある。
いつ、褒められ、いつ、厳しくされるか。
そうはいっても、人はどんどん成長するから、絶対的な基準はない。
うーん、わからないけど、考え甲斐があるなと思っている。
うーん。そうやって、考えて考えて。
一緒に成長するのが教育かもなと思っている。

うーん。





2019年10月27日日曜日

中国

中国に行ってきた。
噂には聞いていたのだけれど
本当にGoogle 関連(youtube 等も)SNSは全く使えなかった。
ちょっと冗談かなとも思ったんだけど、本当だった。

そうだよな。なくても別に社会は成り立つよな。

自己主張の国だ。
横断歩道を渡るのが難しかった。
切れ目なく車が往来する。
車線すら、結構無視されている。
右側通行で、信号が赤でも右折はOK。
つまり、歩行者の信号が青でも車はひっきりなしに通る。

初めは、誰かについて行くことしかできなかった。
みんなどうやっているのだろうと観察していた。

だんだん、ちゃんと意思疎通をしていることが見えてきた。
横断歩道を渡るとき、

あのー、渡らせてもらえませんか、いや、えっと・・・

そんな空気を出していたら、いつまでたっても渡れない。
車と人だし、言葉は交わせない。僕は、言葉は話せない。
でも、空気は伝わる。わかってきた。

よし、僕はこれから横断歩道わたるからな!止まれよ!
しゃーねーなぁ。

こんな"会話"をすれば、横断歩道は逆にいつでも渡れた。
互いに強い主張をしても、成り立つのは
互いに主張を受け入れられるからなのかもしれない。
意外と面白い。
僕は強気の会話でないと伝わらない気がしていたけど

わしゃー、これからここ通るでよ。轢かないでおくれよ。

とおじいさんが、横断していた。ちゃんと通じていた。
ただ間違いなく、おじいさんも主張をしていた。

日本はマナーが良いと言われる。
言わなくても伝わる。
それはとても素晴らしいことだと思う。
でも、そのせいで
言っても伝わらないことや
言われたことを受け入れられないことも
案外多いのではないかなと
そんなことを思った。

2019年10月19日土曜日

elegant と arrogant

英語を聞いていて、
あれ?エレガントと言った?ここで?
と思うことが何度かありました。

よくよく聞くと elegant ではなく arrogant でした。
エレガントの意味はまあ、わかるけれど
arrogant は傲慢な、とか横柄な、と言う意味。
LとかRとか、たぶんわかる人にはわかるのだろうけど
発音がよく似ており難しい。

I was elegant と聞こえて、ん?となり、正しくは
I was arrogant だったりしました。
I was elegant とは、なんと arrogant なんでしょう。

しかしこんなにも発音が似ていると考えてしまう。
elegant であることは、もしかして arrogant であることに近いのではないか。
もしくは arrogant の先にelegant があるのではないか。

英語が生まれた時、すでに人は
こんなことをわかっていたのか!すごい!深い!

なーんて思ったりするのだけれど、最近、こういった
気づき、とか、ちょっとした思考が「すごい」とか「深い」とか
そう思うのは気のせいかもしれないなと感じはじめている。

深い、とか。簡単に言い過ぎではないかと。
そこはもしかしたら、浅瀬ではないかと。
便利な褒め言葉として、深い、が使われてはいやしないかと。

数学を思い出してみる。僕はいまだに数学の深さ、とか、美しさとかが分からない。
分からない、と言うと言い過ぎかもしれないけど、納得はしていない。
何度か多少深くに進んだ記憶はあるのだけれど、その時でさえ
この深さは「普通」で、その先にきっといける人は
いくのだろうなという感覚が残っていた。
それには、今いる場所を深いとか、言っていられない、そんな気持ち。

深い!すごい!などと思った時、問いかけたい。
そこは、ゴールなのかい?

2019年10月12日土曜日

じあまり

台風で みんなやすみで なんかいい
多くの人が やすめますように

じあまり。

いつもより、静かで、平和だ。楽しい。
そんなことを言うと怒られるのだろうか。
まあまあ、良いではないか。
こんなに東京で自然を感じられる機会もないのだから。

ぜんぶ受け入れて、楽しく生きるのさ。

2019年10月5日土曜日

現代数学レクチャーシリーズ

日曜の午後をまるまる使って数学の講演を聞くという大層な企画に、無料とはいえ本当にたくさんの人が集まってくれました。きっと企画をしてくれた、すうがくぶんかさんのお力が存分に発揮されたと思っています(すごい!ありがとうございます)。

早々に講演を終えた僕は他の人の話を聴きながら
やっぱり数学っていいな
と、ずっと思っていました。
数学の良さをもっと知ってもらいたいなと思うようになりました。

そういえば、1年ほど前に「数学小噺」とタイトルをつけて講演をした際に、数学の"おきどころ"を「笑い」と同じような場所にしたいと思っていた。

数学者は「数学にできるもの」を日々探している。芸人さんが日常に笑いを探すように。笑いのある日々と同じくらい、数学のある日常も、きっとよいもの。簡単な数学から大学レベルの数学まで、言われないと気づかないけれど、確かにそこにある数学を紹介していきます。

こんな謳い文句で講演をした。小さなところに笑いをみつけてにっこりするように、小さなところに数学をみつけて、にっこりできたら、なんでもない日々が楽しくなるだろうと思っている。

みんなは気づいていないけど、気をつけてみれば、ちゃんと見つかるんだよ。

そんな話をしたら、女の子が
え、妖精さんみたい!
と言っていた。

そうそう、そんな感じ。そんな感じ。こんな純粋な形で伝えられたらいいな。おっさんには難しいかな。今回の講演を少しずつ育てていけたらと、思っています(なので、呼んでください笑)。ありがとうございました。

2019年9月28日土曜日

入試

入試が混乱しているらしい。
どんな形であれ、選抜するというのは
運やその他いろいろによる不公平は生ずるものだろう。

その意味で、僕はあまり関心がないのだけれど
(いや、できるだけシンプルで多くの人が納得できる形がいいとは思います)
この状況、僕が受験をした時を思い返すと
ちょっとだけ、いいなと思うのです。

試験というのは形が定まると「対策」ができてしまう。
この、「試験対策」が僕はずっと苦手でした。
もちろん必要だとも思うのだけれど
面白いと思ったことを、面白いと思ったように勉強したいと思っていた。
周りを気にせず、そうすればよかったのだけど
僕はそこまで頭が良いわけではないので、楽しいことだけだと
特に形の定まった「対策」ができる試験では成績が悪かった。
だから、僕も対策をした。そこまで効果があったわけではないが
やらないよりはだいぶマシだった。
でも、対策は、楽しくはなかった。

逆に、いわゆる、実力テスト、といった誰も対策できないテストで
たまに(決していつもではない)奇跡を起こしていた。
テストの内容が楽しい時はちょっと成績がよかった。

今、入試に誰も対策できない。
不満もよくわかるけど、意外とこの状況、良いかもと思うのです。

誰も対策できないのであれば、楽しむしかないから。
面白いと思ったことを、面白いと思うように身につけるしかないから。

この状況を作った大人たちを肯定するつもりはない。
とてもダサいと思っている。
でも、それでヘソを曲げるのはもったいないから。
イヤなものをみて、気分を悪くしていても、何も始まらないから。

何かを学び、身につけること
できなかったことを、できるようにすることは
とても楽しく、わくわくすること。

聞くところによると、外部試験など、
きちんと調べて、行動しないと乗り遅れる可能性もあるらしい。
確かに高校生には大変なことかもしれないけれど。でも。
もし本当にやりたいことができて、
それが周りの大人が知っている道でなければ
調べて、行動しない限り何も始まらない。

もしかしたら、そうやって調べて行くうちに、
何もなければ見つからなかった面白いことも、みつかるかもしれない。

繰り返すが、この状況を作った大人たちはとてもダサい。
けれど、これまでだったら何となく周りに
合わせていれば良かったことが、そうでなくなったことで
見つかるものも、きっとある。
大人に合わせて、一緒にダサくなる必要は全くない。

単純に学ぶことを、知ることを楽しめばいい。
もしかしたら、楽しく学んだことは試験に合わないかもしれないけれど。
誰も、試験がどうなるか分からないなら、仕方ない。
ただ、そうやって楽しんで学んで身につけたことはきっと自分のためになる。
試験とか、大人が作った枠組みに合わない、
そんなことがどうでもよくなったら。
そうなったら、自分の足で歩けるようになるんじゃないかな、などと思うのです。

いつかもう少し大きくなった時、大人に良いように使われて、自分を見失わないために。
きっと大事だと、僕が思っていることがたくさん、学べそうだと思うのです。

2019年9月21日土曜日

ピリピリした

温泉もまた、久しぶりである。
銭湯はよく行くのだけれど、温泉はやはり良い。
電気風呂なるものがあった。
ピリピリした。
露天風呂があった。太陽が元気。
ジリジリした。
お風呂から上がると、雑魚寝で高校野球をみる部屋があった。
ダラダラした。
野球は白熱していた。
ハラハラした。
スーパー銭湯のような場所で、食堂がある。ラーメンを食べる。
ズルズルした。

さあて、帰るか。
そう思って外を見ると、全力太陽さん。
せっかくお風呂に入ったのに、ここから1時間歩きますか。
悩みながらその辺りを歩いた。
ブラブラした。
結構ちゃんと暑い。
クラクラした。
車を手配してもらうことにした。
思いの外、いいお値段まで上がっていく料金。
キリキリした。
まあ、仕方ない。

旅も、もう終わりだ。
ここから、この辺りでいちばんの都会へ向かった。
この地に、しばし滞在している先輩が魚屋へ連れて行ってくれた。
思えば魚は有名なのに全く食べていなかった。ありがたい。

魚を楽しんでいると結構いいお時間。
そそくさと、空へ飛び立つ準備をした。
最近は手続きがとてもカンタン。スムーズ。
キビキビした。

夜更けに家までたどり着くと、
先刻までいた場所の昼間よりも気温が高かった。
むわっとした。
その空気に、一言。
あいさつした。
ただいま。

旅が終わってしまいましたか。少しだけ、
しんみりした。

2019年9月14日土曜日

ゆかり

何もない町だ。
いや、昔はもう少し、あったのかなと思わせる、
名残だけがある町だ。

ここでは特に目的はない。
ただ、この地に泊まってみたかった。
何の気なしに選んだ宿は創業120年だった。
大きなホテル。
ここにそんなに人は来るのだろうか。
失礼かな。
僕には、この宿も名残にみえた。

何か見るものはないかと地図を眺める。
うーむ、何もない。
もっとじっくり広く眺めてみると
1時間ほど歩いた先に温泉があった。

昨日から随分と涼しい。
この気温ならよろしいでしょう。
歩いてみることにした。
町をみにきたのだ。歩くのは良い。

土地柄だろうか、隙間が広い。道路も広い。
そんなことを思っていたら
すぐに、田畑に囲まれるようになった。
路地販売で美味しそうな野菜が売っている。
とうもろこしが欲しかったけれど、さすがにどうしようもないので
しばし眺めて、諦めた。

歩くに連れて、太陽がだんだんと本気をだしてきた。
今まで雲に隠れていた彼は、この北の地でも輝いている。
暑い。暑い。
なんとか温泉まで、たどりつく。

温泉に入る準備、万端である。
思いつきで来てみたけれど、
ゆかりの地で湧く温泉に入るだなんて素敵でないか。
わくわくした。

2019年9月7日土曜日

かしこまり

着慣れない、かしこまった服を着て、お祝いへ。
かしこまった服は夏はとても暑いのだけど、気温は冬よりの秋。
むしろ、かしこまった服があってよかった。
なんだか手作り感のある式。とても良い。

式のあと、共に呼ばれた友、
といっても先輩たちは意気揚々と旅へ。

僕はすでにだいぶ旅をしてきているので、同行せずに近くを散策。
どうしてもいちおしが動物園のようで、向かう。
かしこまった服で、向かう。

ふいの涼しさに元気な動物たち。
思えば、久々の動物園。猛獣たちが勇ましい。
テナガザルの圧倒的な運動神経に驚く。
フクロウがたくさん。

動物を眺めてる人々。ときどき、え?という顔を僕に向ける。
すみません、ここで、かしこまった服は、そりゃ可笑しいですよね。

存分に楽しんだ後は、電車で少しだけ移動。
訪れたことのない、自らのゆかりの地へ向かう。

2019年8月31日土曜日

しか

ただいま、急ブレーキをかけましたが
しかが、線路に立ち入ったためです。
しかが、無事に立ち去ったため、変わらず運行してまいります。

一日かけて、電車で移動。
この先、雨で運休の可能性があるなんて、そんなわけないでしょう。
これぞ、快晴。山沿いを抜けて、しかとすれ違い、海沿いへ。

長旅なので、思考のタネをいくつか頭に仕込んできたのだけれど
まあまあ、そんなことを言わずに、景色でもみておいでなさいよ。
窓の外から声が聞こえるような、雄大さ。

そこまで言うなら、そう致しましょう。
北へ向かう予定で、お昼過ぎの列車だったので
進行方向右側の窓際にすわる。
これで、日差しを気にせず、窓の外をみることができる。
完璧だ。
あれれ。
日差しが差し込んでくる。

そんなバカな。地図を広げて停車駅と見比べる。
なるほど、海外線に沿って、ぐるっと回って
端まで行って、もいちど回って北へ行くのですか。

到着予定時刻を見ると、そんなに長い時間でなさそうなので
日差しをあびながら、海を眺める。

うーみーはひろーいなー、おおきーいなー。

全く何のひねりもない歌だ。
なのに、どうして、やっぱり、こう言わさるのか。

海は広い、大きい。

その海を貫くトンネルを抜けて、やってきた。
昔を想像して、感動もした。
思考の後に、シンプルを見ると、
なんだか深い気がしてしまうのは、どうしてなのだろう。

まあ、いいか。気のせいかもしれないけれど
なんか、深いものをみた気がするというのは
結構気分のいいもんだ。

しばらくして、乗り換え地点にたどり着く。
件の、運休の可能性があった列車は、元気に走っていた。

いやいや、助かりました。
乗り換えをしたあとは、1時間ほどで目的地。
これまでの旅を思えばあっという間。

目的地にたどり着くと。あらま、寒い。
東京は酷暑でヒーヒー行ってるらしいのに、寒い。

これも一興、真夏の寒さを肌に教えてみてみましょう。
本日は、この地に一泊。明日は先輩のお祝いだ。

2019年8月24日土曜日

つらぬく

美人の町に別れを告げて
りんごの町へ向かう。

りんごの町では一泊するだけで
すぐに、さらにさらに、北へゆく。

さすがは、りんごの町。
朝ごはんにでてきたりんごジュースが
おいしい。それはもう、おいしい。

りんごの町に早々に別れを告げて、北へ。
名のあるトンネルを通る。

車内で、観光案内。
このトンネルは全長53.8km、一番深いところでは海底240mを通ります。
40年の地質調査を経て、1988年に開通いたしました。

録音ではないのに。淀みない、綺麗な音のアナウンス。
きっと、車掌さんも、好きなんだな。

ちょっとだけ想像した。
トンネルがなかった時代のことを。
ここに、トンネルを通してやろうと志した人々のことを。
技術も、気力も、きっと全部ぶちこんで
海に、一本の長い穴を貫いた、その瞬間のことを。

昔にばっかり浪漫を感じるのは、僕の悪い癖だ。
まあ、僕だけでなく、どうやら人は、そういうものらしい。
トンネルそのものは、
うみの底に沈んでいることなど微塵も感じさせず
いたって普通のトンネルであった。

すごいことを、いたって普通と感じさせることが
一番すごいんだよな。

目的地は決まっているのだけれど、
道中は何も決めていない。
トンネルの先の駅で、1時間ほど待ちぼうけ。
観光案内のお姉さんに、尋ねる。
近くに何か見るものはありますか。
この辺りは、何もありません。
あらまあ。

仕方ないので、駅の外に出てみると
思いもよらない、ぼくの好きなものがあった。
そこには、何にもない、があった。

いえいえ、田んぼと畑がありました。
少し行くと、ふつうに馬がいました。
田んぼにたくさん人がいるなと思ったら
かかしでした。
大きな鳥がたくさん飛んでいるなと思ったら
かかしでした。

大いに楽しんで駅に戻る。
この旅はとても天気に恵まれているのだけれど
どうやら、ぼくの前後ろでは雨が降っているらしい。
とくに、前。

みどりの窓口で、お姉さんに教わります。
大雨で、電車、運休かもしれません。

あらあら、雲行きが怪しくなってまいりました。
ともかく、行けるところまで、ゆきましょう。

2019年8月17日土曜日

たび、たび

駅に着くと、困った。列車に空席がない。
掲示板には、ばってん、ばってん。
仕方なく、立席。といっても、立席は、すき。

立席は、すいてた。
デッキを独り占め。

本当に誰もいないから
鼻歌なんか、歌ちゃったりして。
らんらるら。

ときおり、人がデッキに出てきて、きょろきょろ。
ゴミ箱の場所がわかりづらい。

ここですよー。
あら、あら、ありがとう。

途中で、路線の空気が変わる。
ゆったり、ゆったり、ゆるりるり。
相変わらずデッキに立っていたら
車掌さんがやってくる。
ここから先は、ご自由にお座りください。
おお、ラッキー。

やっぱり座れると快適である。
列車は山道を進み、進む。

トンネル、断崖、トンネル、断崖。
途中から
水田、水田、休憩中の水田、水田。

まもなく、到着します。
水田の真ん中でアナウンス。
この景色から、もう、まもないのですか。
そうですか。

お昼過ぎに到着すると、まばらな人影。
結構大きい駅である、はずなんだけれどな。

夏、結構北に来たはずなのに、
日差し、ジリジリ。
太陽は、ここでも元気。さんさん。

美人の町らしい。
行きかう人が美人に見えて仕方ない。
よいよい。

用事があるので、しばし滞在。
と言っても、明日の夜、さらにさらに北へゆく。

2019年8月10日土曜日

草枕

夏目漱石、草枕。

「山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。
とかくに人の世は住みにくい。」

最近ずっと好きで、事あるごとに思い返しているのだけど
すごいなと、今更ながらに感心している。

世の中のいろいろな問題を考えるときに、
いつも、論理と感情を分けて考えている。

論理で考えている人と
感情で考えている人が
議論と言う名の口論をしている場面をよく見かける。

始まりの条件が違うのだ。
同じ人が考えても全く別の結論が出るだろう。

論理をルールに物事を考えると、得てして、とても辛辣な結論に達する。
論理はその刃で少しの人が傷つくことを、多くの人の福祉のために肯定する。
感情をルールに物事を考えると、綺麗な答えの後ろに、
たくさんの「気遣い、やさしさ」という無理が隠れる。
その無理の積み重ねによる悲劇を幾度も見聞きした。

全く難しいなと、思う。
そんな風に、いろいろと、ものを考えていると
ときに、とても強い信念を得て、大事にしたいと思ってしまう。
すると、その信念にそぐわない、いろいろに
強い反感を覚えて、許せなくなったりする。
進むことも戻ることも右左に折れることもできずに、
信念にがんじがらめにされてしまう。

もう、本当に難しいな。
そうして、こんな思考が頭をもたげるのは
旅をしている時が多い。

なるほどな、と思うのです。

「山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。
とかくに人の世は住みにくい。」

2019年8月3日土曜日

たゆたゆ

それなりに長い期間、身体で遊んでいる。
この歳になっても、やれることはあるようで
この歳になっても、できるようになることも
どうやらたくさんあるようで、面白い。

まあ、大した歳でもないのかもしれない。
それでも、最近は
これまで、できていたことが
ふと、できなくなって
なぜ、できなくなったのだろうと
数週間にわたって試行錯誤している。

きっとまたできるようになると信じている。
けど、ちょっと期間が長く、歳なのかなとも思った。

ずっと若い頃にも、
できたことができなくなって
たくさん苦労した思い出があるので
歳のせいでもないかなとも思う。

唯一、歳を感じるのは
そんな風に、足掻いている時に
冷静に原因をさがして
一つ一つ解決していこうとしている自分がいること。
がむしゃらでは、なくなった。

結構最近まで、こうやって重ねて、重ねて
いろいろやって、
詰まるところ、僕は何をしたいのだろうと
悩んでいた。

いまも、目的ははっきりはしていないけど
その悩みは減りつつあって、
なんとなく、これでいいんじゃないかな、と思っている。

別の悩みはまた増えているのだけれど。

ああ、まとまらない。
ビール片手に書いてるからかな。
お酒は、たゆたっていたいときに、ちょうどいい。

そんな日があってもいいだろう。
たゆたゆ。書いてみてかわいいから
この文章の名前にしてしまいました。
たゆたゆ。

2019年7月21日日曜日

きおく

幼なじみと話をした。彼が懐かしそうに言った。
「俺らの遊び場でさ、サンタがいるか、みんなで話したこと、まだ覚えてるんだ」
なんと、ぼくも、その話をしたことを覚えていた。
でも、どんな結論だったか二人の記憶には少しだけ齟齬があった。

「これから色々なことが記録されるようになって、こういう時、調べられるようになるのかな」
彼がそう言うのを聞いて、
昔、講義を聞いて、脊髄反射のように
溢れた思いが頭をよぎった。
ユビキタスの授業。まさに、マイクやカメラが小型化して、
全てが記録させるだろう。そんな授業だった。
「初めてのデートで、どんな会話をしたか全てわかるようになるのです」
まるでそこにロマンがあるように、講師は言った。

オムニバス式の講義。
講義の感想を書いて提出すると、それが成績になる。
ぼくは
「誰も覚えているなんて期待していない、どこにも記録されていない。だからこそ、覚えていることがロマンなんだと思う」
そんなことを書いて提出した。

毎週講師は変わる。でも他の講義でも、
自分の正直な気持ちを感想として書いた。
きちんと出席していたのにも関わらず、その授業の成績は悪かった。
提出した感想だけで成績をつけるのにも関わらず、だ。

20年前、何の気なしにした会話を、僕らは覚えていた。
これが素敵なのは、どこにも記録されていないからじゃないかな。
そう、彼にぶつけてみればよかった。
きっと面白い話ができただろうにと思う。
最近は、思考が言葉に、行動になるのにちょっと時間がかかる。

でも、あの授業で感じた「進歩」への違和感は
今でも大事にとってある。
工学から、数学へ移った、理由の一つであるなと思ったので
書き残しておくことにしたのでした。

2019年6月29日土曜日

タノシイ

工学部卒で真っ当な数学教育を受けていない僕は、
教える側になって初めて系統だって一年生の数学を見ている。
すると、専門から少し離れた数学の講演を
より楽しめるようになった。
これまで楽しめなかったのは、ただ知らなかっただけらしい。
役に立つとか、生きていけるとか
人は色々言うけれど
見て、触れて。
面白い、楽しいと思えるものが増える。

学ぶ理由なんて、これで十分だと思うんだよな。

2019年6月23日日曜日

いつかの結び目

トポロジーの話。今度の講演のメモ書きである。
ボールの軌道を追いかけることによって組みひもを作る話をする。
トポロジーの説明は1年前の動画(これ)をみてもらうことにして
その先の話。

人と人との関わりは、組みひものようだと思っている。
もちろん礼儀は大事だけれど、多少の"ゆれ"はそこまで関係性を大きく変えない。
積み重なって大きなわだかまりになることはあっても
一つ二つの失礼、失言はなんだかんだで、その後がしっかりしていれば
関係性を大きく変えることはない。
組みひもを多少揺らしても、交わることがなく
トポロジーが変わらないのによく似ている。

けれど、例えば

相手が本当に困っている時
助けてあげられるか。

追いかけたい夢ができた時
それをお世話になっている人に伝えられるか。

本気の思いを、相手に伝えられるか。

これが、組みひもの「絡まり」を、きっと変える。
トポロジーが、変わる。

思えば、ずっとランダムな絡まりを研究してきた。
人と人との交わりは、組みひもを形成していくとして、
その絡まりかたは、成り行きに任せるだけなら
きっとランダムであろうと思う。
偶然が積み重なって
そうやって、人と人との関わりが生まれていく。

わかっていることは、過去にできた結び目は
成り行きに任せていたら
ランダムに組みひもを絡ませていたら
ほぼ間違いなく、解けないこと。

それを解こうと思ったら、時間が経てば経つほど
大きな努力がいること。

多くの場合は、とてもとても解けず
諦めるしかないこと。

話は飛躍するけれど、
死は、そんな複雑になった絡まりを解く、
大きな視点では大切なものだと思っている。

結局、ほとんどの場合、
今、ここ
でしか組みひものトポロジーは変えられない。

本気を見せる、その前に必要なさまざまな障害を乗り越える時の、ゆれは、
やる前は大きなものに見えるのだけど、
やってみると、そうでもない。
トポロジーはきっと変わらない。

でも、その本気を誰にも見せずに、
伝えずに、行動せずに、隠してしまうと
トポロジーを、変えてしまう。

そんな風にトポロジーを変えてしまうと
いつか、後になって気づく。
そこに嫌な絡まりがあることに。
それは、解けないことに。

実を言うと、そんな勇気を持って見せつけた本気のそれは
そう遠くない未来に、大事でなくなったりもする。

それでもいいから。
動いて、伝えて、見せつけて欲しい。

大人は色々なことをいうけれど、
結局、人は、自分が見てきた世界のことしか、知らない。

今、この瞬間にある想いは、たくさんの大人の"これまで"より
ずっと、本物だ。
だけど、本物であればあるほど
価値があればあるほど、
伝えないと、表に出さないと
明日にはなくなってしまうかもしれない
たぶん、そう言うものなんだと思う。

見せつけて、その後大事でなくなってしまうのと
隠して消えてしまうことは
似ているようで、違う。

上から見ると、一周回って同じ場所にいるようで
横から見ると、一段、違う。

高校生の時、結局僕は、ぶつけた本気の道へは進まなかった。
ずっと、解けない、嫌な絡み目を感じていた。
だから、大学生の時、
僕は、絶対に譲らないと、覚悟ができた。

そんな感じ。

テンション上がって色々書いてしまった。
ここから、搾って、ジュースにします。

2019年6月15日土曜日

出張講義

今度、高校に出張して講義をすることになった。
それに向けて書いた講義紹介の文章を(自分が)気に入ったので
こっそりここに書いておきます。

タイトル

「ジャグリングの"かたち"」
テーマ
「かたち」を理解したい。そう思った時、最初に考えつくのは長さや面積を測ってみることです。きっとたくさん学校でも勉強しますね。でも、もう少し、ゆったり、考えてみてみると? 一つ一つ、長さや大きさは違っていても、木はみんな「木のかたち」をしているし、ドーナッツもみんな「ドーナッツのかたち」をしています。こんな感覚をことばにする、一つの方法にトポロジーという数学があります。この講演では、トポロジーを使って、ジャグリングの色々なワザの「かたち」を理解していきます。きっと、「かたち」という考え方に新しい視点が得られるはず。もしかしたら、「家族のかたち」とか「愛のかたち」とかも、わかる、かも?しれません??

とりあえず、楽しみです。





2019年6月8日土曜日

余計なこと

金沢から東京まで付き添って、ようやくひと段落 彼は深夜の便で帰っていく。 最後はラーメンを食べた。 思い返すと二週間、ほぼ毎日、昼夜と一緒にご飯を食べ 数学だけでなく、色々な話をした。 大変だったけど、楽しかった。 いまは、少しさみしい。 余計なこともたくさん考えた、よい二週間だった。

文字数の関係でかけなかった、"余計なこと"を
書こうかとも思ったけれど、書かない方がよい気もしている。

とにかく、今、この瞬間は二度と戻らないことを
強く意識した二週間だった。

2019年6月1日土曜日

That's intelligent

海外からお客さんがきている。
僕から見ると、彼は「日本が好きな天才」で
日本に来るきっかけに、
僕と話をしてもいいと思ってくれているのだろうと
思っている。

何か僕が提案をしても
That's a good idea.
と言いつつ、即座にその上をいかれるばかりだった。

研究、学習をする時、何かに話しかけるといいと言われている。
お人形に話しかけると言うのは(見た目はかなり奇怪だが)
すごく良い研究方法だと言う。

僕の役割は、ちょっと数学の話ができる人形だった。
最初は、人形だし、他にやりたいこともあるし
それなり、でやるかと思っていた。

でも、気づいた。
これが、ものすごく貴重な機会であることに。
もしかしたら、彼とこんなにじっくり話せる機会は最後かもしれないことに。
そう思って、死ぬ気でやる決意をした。
色々なものを放り出して、全力でやった。
今週の授業では、毎回何かしらを忘れたり、やらかしたりした。
ごめん。

彼と2年前からずっと考えている問題がある。
彼から大量の情報を叩き込まれ、疲れて寝て、起きた朝、僕は発見をした。
問題が進んだ。
彼は初めて
That's intelligent.
と言った。
とても褒められた感がある。嬉しい。

きっと後少しだ。
彼は後一週間滞在する。
やりきる。やりきるんだ。

2019年5月25日土曜日

頑張る

今日から2週間フランスからお客さんが来る。 前に彼を訪ねた時は 朝数学、昼数学、夜はBARで数学だった。 海外にいる高揚感で乗り切った。 日本でも同じだろうか。どうしよう。 エネルギーが、必要だ! 動画があった。 うむ。彼はちょっとかっこいいんだよな。 頑張るぜ。

2019年5月19日日曜日

新しい時代

新しい時代だ
意気揚々と、人々は唄う
ぼくも、何の気なしに少し楽しい気分になっていた。

時代が変わり、少し経ち、気づく。

大学そばの、弁当の美味しいお肉屋さんが
家のそばの、商店街の一角にあった文具屋さんが
4月いっぱいで、閉店していた。

新しい時代、か
ぼくはゆっくり、呟いた。





2019年5月13日月曜日

呟き

もしかしたら、それなりに呟くかもしれません。
毎回、ここに写すかはわかりませんが

10年くらい前は叫びたかった。
呟くなんて、そんなぬるい事できるか!と思っていた。

今は、呟ける気がする。
歳をとったのかもしれない。
でも、かつての叫びより響く、呟きがあるかもしれないと、思うようにも、なっている。


いろいろだ。

2019年5月4日土曜日

令和

年号が発表された時、僕は
これいーわー、これいはいい
と思った。

最近は、エルゴード理論を勉強している。
僕は、エルゴード理論を物事を調和させるのに使いたい。
もう少しいうと、「調和」が望む状態になるような仕組みを考えていきたいのだ。

ずっと、自然がいいと思っていた。
何もしないが、一番だと思っていた。
そっとしておけば、調和に向かい、良い状態になると思っていた。

どうやら、そうでもないらしい。
調和はややもすると、安易に流れがちだ。
手近にある、楽な答えに落ち着きがちだ。

その"上"に、本当に良い調和があるかもしれない。
僕がエルゴード理論を研究しているのは
本当の意味でのよい調和へ向かう、
そんな自然を見出したいから。

命令、法令、指令。
令の字には、力強さがある。
安易に流れない、力強さの先にある、調和へ。

令和。

僕が英語にするなら
Law of Harmony

これいーわー。

ずいぶん長いこと書いてきたブログですが、
ひとまず、「毎週末書く」しばりをやめようと思います。

思いついた時に、思いついたことを書くことにします。
たぶん、しばし、休みます。

れいわーれいわー(でわでわ)。

2019年3月23日土曜日

名人(川端康成)

川端康成著「名人」を読んだ。
最後の名人と呼ばれている秀哉名人の引退碁の観戦記である。
ネタバレ等が嫌な人はすみませんが内容にも多分に触れます。



今では、一つの大会の優勝者と言った意味で
「名人」の称号は使われる。

秀哉名人までの「名人」は、相撲の横綱と似た「地位」であり、
一度、その座に着けば引退するまで、失われない「名前」であった。
名人は負けることは許されず、ほとんど対局しないのが一般的。
その中で、秀哉名人は多くの棋譜を残した。
負けることの許されない名人には特権もあった。
対局を途中で打ち掛けにして、後日へ持ち越す権利があったと言う。
囲碁に、持ち時間などと言う考え方がなかった時代の話だ。

その内に、時間制が導入され、囲碁は徐々に「管理」されるようになる。
秀哉名人の引退碁には持ち時間があった。
時代の流れであろう。
その持ち時間が40時間と言う膨大な時間であったことは
まさに、ここが、分かれ目である証拠とも言える。

それでも、名人は対局の最中、
打ち掛けのタイミングであったり
再開の日程であったり
様々な「我儘」を言った。

対局相手の大竹七段は断固として名人の我儘を拒否した。
立場は下であっても、名人に「ルールを守る」ことを徹底して求めた。
負けることを許されない、数多の特権を持つ、「名人」として生きた秀哉名人は
随所に、芸の道を極める人、極道を感じさせる行いが見て取れた。
その一つ一つを、大竹七段は徹頭徹尾、正論で退けた。

正論が、名人の極道としての生き方に打ち勝った、
勝たざるを得なくなった、
その変遷を見ているようであった。
名人と同世代の大人たちの、寂しさも描かれた。
川端康成は彼らの寂しさを理解し、
どちらかと言えば名人を支持しながらも
いつまでも正論をつく大竹七段のこともまた、認めていた。
双方を理解し、また、双方から慕われている人間として
いざこざの仲裁に立つこともあった。

引退碁に秀哉名人は負けた。
大竹七段の盤外の策略を、醜く、一局の碁を汚す行為とみた名人が
憤慨し、その直後に悪手を放ち、碁は崩れた。
大竹七段は封じ手にコウダテの様な手を選んだのだ。
名人に認められた「特権」をルールを逆手に取り
若い大竹七段が利用したと言われたら仕方のない様な行いだ。

名人の憤慨は誰にも気づかれなかった。
のちに、立会人と川端康成にのみ語られたものであった。

最後の名人は、ルールに負けた様だと、思った。
それまではずっと、名人そのものがルールだった。

この本を読みながら、
最近、みんなキレイだよな、と
ずっと考えていたことを思い出した。
「正しい」ことがあまりに力を持っている様に感じる。

悪いことではないのだけれど、
手頃な正解で思考が止まって見えることが、ある。

何が正しいのかわからず、悩み、考え、揺らぎ、
それをずっと続けた先に、ぼんやりと見えてくる
そんな答えが、あるだろう。
揺らぎ、掴みきれていない状態は弱い。
ずっと手前の「正解っぽいやつ」で止まっている人が
その「正解っぽいやつ」を振りかざして
その、ずっと先の答えに繋がる思考に入り、揺れている人を、
刹那的に弱くなっている人を
打ちのめす場面が散見される。

すっごく掘ると、結構いろいろ出てくるぜ、と
そう教えてくれるのが数学かもしれないと
そんな事を思ったりもした。

2019年3月16日土曜日

銭湯

家のそばに、古い、それはもう、古い、オンボロの銭湯がある。
大変気に入っている。
銭湯からの帰り道は、どうしてあんなに気持ちいいのだろう。

大学一年の時は寮に住んでいた。
部屋にお風呂はなく、共用棟まで行って共同風呂に入る毎日。
あれも、気持ちよかった。

時間のことだけを考えたら、すごく非効率なんだろうけど。
銭湯からの帰り道に見えるもの、感じるものというのは
大切なんだろうなと思う。

これを、大切にしたいんだろうなと、思う。

2019年2月23日土曜日

好き

少し前の記事で、苦手なものについて考えた。
こんどは好きなものについて考えてみた。
そのうち、好きと言う言葉について
考えるようになった。

好きです。

そう言われたら、ほとんどの人が
それは、どういう「好き」か
考えるだろう。

たくさんの日本語がある中で
これほど「本当の意味」について
たくさんの人が
思いを巡らせた言葉はあるだろうか。
だれもが、その意味は、
一つではないことを
知っている。

人間として
友達として
恋人として
仲間として
家族として

きっと他にもたくさん
好きになる。

一つの意味を勝手に想像して
そう、と決めてしまうことは
まれであろう。

「好き」だけでなくて、
一つ一つの言葉に対して
こんな風に、たくさんの意味を想像して
しっくりくる、意味を探す。
そんなふうにすれば
世界が違って見えるような気がしてきた。

物事の一つの側面を見たとしても
それを全てだと思わず、
たくさんの可能性を探す。
なんだかとても数学的、科学的だな
と、結局自分の好きなように考えてしまう。
こんな、好きもある。

そういえば、数学の問題をあれこれ考える様は
片思いのようだと、
そんな話も、したっけな。

2019年2月16日土曜日

初めての授業

初めての授業が一学期分、終わった。
終わったその夜に
授業の準備を全くしないまま
教壇に上がってしまう夢を見た。

最近の学生は出来が悪い、言うことを聞かないなどと
皆が口を揃えるので
随分と身構えていたが
そんな事はなかった。
とてもよくできたし、とても素直だった。
もちろん1クラス100人
合わせて3クラスで300人もいたので
一人残らず、とは言えないけれど。

基本的、毎回の小テストで点さえ取ってくれれば
うるさい事は何も言わないスタイル。
小テストをコアタイムに
学生は思い思いの時間に来て、去って行く。
特に2コマ目のお昼休み前は
早め帰る人が多かった。全然よい。
お昼の選択肢も広がるしね。

でも、友達がみんな帰って行く中
一緒に席を立った学生さんが
扉の前で立ち止まり、結局最後まで
立ち見で聞いていた事があった。
意思を感じた。
来なくても良い、帰っても良いと言われても
最初から最後までずっと聞くのも意思。
こんな、意思が、なんとも素敵なものだと思った。

まだまだ工夫の余地も沢山あるし
反省点も多いけど
とりあえず
僕は楽しんでいます。

2019年2月9日土曜日

ゆっくり

本を読むのがゆっくりになった。
もともと遅かったのだけれども
さらにゆっくりになった。

大学の授業評価アンケートが返ってきた。
だいたい、いい感じだけれど、
「話す速さ」の項目の評価が低かった。
自覚もあって、ついつい逃げるように
早口で話してしまうのだ。
ゆっくりにしたい。

こんな風に、ゆっくりを意識すると
大きな川がいいなと思う。

その景色はとてもゆっくりで、
それでいて、たくさん運んでいる。
たくさん運びたいのかどうかは
また、わからないけれど。

人は意外と待てるものだし
待っていてくれる人、に
きちんと伝われば、それでいい
そんな気もする。

2019年1月26日土曜日

苦手

数学が苦手である。
もう少し正確にいうと、
世の中で「数学」と言われているものが
苦手である。
一方で、僕の好きなものも、
やっぱり「数学」と呼ばれている。
そういった意味で、
大学一年生の「数学」というのは
どちらかというと、
ぼくの苦手な方の数学で
なかなかに教えるのに苦労する。

ああ。苦手というのは
「できない」という意味ではない。
いや、苦手だけれども。
だから、どうにかして
「ぼくにとっても、楽しい」
ようにやってみている。

なんでこんなことを書いているのかというと
後期ではなんとか、
「ぼくに楽しい」ようにできた
一年生の数学。
一年生の前期の数学が、
もうどうしようもなく
苦手な数学で、
うーむ、こいつを楽しくするには
どうしたもんだろうと
今から頭を悩ませている。

ただ、今、教えてる数学は
楽しくしようと、教えているうちに
ぼくが勝手に楽しくなって
むしろいろいろ勉強したくなっている。
それは面白い発見である。

前期でそれをやるのは、たぶん
より大変なチャレンジだ。
大変な分だけ、もっと面白い発見があるかも。

がんばります。

2019年1月19日土曜日

いろいろ

一つの定理に色々な証明がつくことがある。
一度「証明」されれば、その"正しさ"は不変であり
もう一度、別の証明をする意味なんてあるのだろうか?

きっと、たくさん答えがある中で
ぼくの答えを書いておきたくなりました。

数学というのは、自由な学問であり
自分の好きなように、ルールをきめて
そのルールに従ってゲームを楽しんで良い。

何をやっても良い
そんな世界でひとは
どこに価値をもとめるか?
一つの答えで、
ぼく自身が大事だと思っていることが
「ひろがり」
である。

数字なんてただの記号で、
どんなルールにしても良い。
"2"と"3" が表す意味を逆にして
1+1 = 3
1+2 = 4
1+3 = 2
としたって、特に問題はない。

でも、このルールを作って色々な遊びをしても
その世界はおそらく、大した"ひろがり"をもたない。
僕らがよく見知っている数字の世界を
超えることはないだろう。

ぼくらは、一つのきっかけで
わっ、と世界が広がる
そんなルールを探しているんじゃないかと思っている。
素敵な世界が広がると
人々が集い、文化ができる。
"国"のようであるなと思った
という話を昔した気がする。
この"文化"の目に見える部分が定理。

自由だから、みんな好きなように
ルールを、国を作っていく。
いろいろな国々で、面白い文化ができていく。
みんなが気ままに作った国で育った文化が
つきつめると、深いところで
繋がっていることがある。
この"つながり"は数学の魅力であるし
素敵な国と繋がれた国はきっとまた素敵。

一つの定理にいろいろな証明がある。それは
一つの定理がいろいろな"文化に"現れる
そんな意味ではないかと思う。

その定理はきっと、国と国をつなぐ架け橋になって
そこから、さらに素敵な世界が広がって。

そうやって、続いていくのが
数学なのかなと思ったのでした。

2019年1月13日日曜日

評価

ぼくは「感動した数学」を忘れない。
囲碁をやっていたおかげかと思っている
対局を覚えているのと感覚が同じ。

基本的に記憶力がほとんどないぼく
そんなぼくが「覚えていられるもの」。
ぼくが何に感動するかはぼくにもわからない。
それでも、ぼくの数学は「ぼくが感動したもの」でできている。

全然見向きもされなかったり
意外と評価されたり

ひとの評価は正直気になる。
けど、全然評価されない自分の論文を読んでも
ぼくは、おもしろっ!となる。
このおもしろさが分かるのはぼくだけ!
と悦に入ったりもするが、
ただの負け惜しみだろうか。

一方で、
「ひとに評価される数学をやるべき」
そういう人もいる。
ともすると、他人の価値観で数学をするようで
なかなか受け入れられなかった。
それでも、最近は評価されることは大事だと思っている。
ひとに合わせることはできないのだけど。

たぶん、理想は自分の「面白い」を
周りが評価せざるを得ないほど
突き抜けたレベルで表現すること、かな。

とりあえず、しばらくは自分の「面白い」を
それだけを、追い求めてみたい。

それでダメなら、そのときは、そのときだ。

2019年1月5日土曜日

跳躍

明けましておめでとうございます。
毎年、年が明ける瞬間
全力でジャンプしています。

おれ、年明けの瞬間地球上にいなかったぜ!

という、子供の遊びです。
こういうくだらないことを
ひたすらに、続けていきたいです。

じーちゃんになっても
毎年やっていきたいです。

ずっと続けていきたいことがあるというのは
良いものだと思っております。

今年もよろしくお願い致します。