2020年8月29日土曜日

情報の伝達速度

 数学の発表では黒板が好まれる。
100人を超える聴衆がいたとしても、黒板で発表することは往往にして選ばれる。
なぜか?
もちろんスライドを用意して巧みに発表する人はゼロではない。
けれど、実感として9割のスライド発表は聞く気が起きない。
一つの理由としては、「早すぎる」ことが挙げられる。
一度に大量の情報を提示できてしまうために、「伝わった気」になりやすい。
情報を見せることと、伝えることのギャップに気づきづらい。
黒板発表では、文字を書くスピードに限界がある。
(注:その限界は想像よりも上にあり、マシンガンのようにチョーク音を響かせる人はたくさんいる。それでも、スライドとは比べ物にならないほどに、伝わる)
他にも、「再現性」も大切らしい。
黒板発表では文字は普段自分が書くのと同じように再現される。
それが頭に残りやすいらしい。
きちんとした証拠を調べたわけではないけれど、実感としてはとてもよくわかる。
黒板。なにより、数学がその人の体から溢れ出てきている様子をまさに見ることができる。
これがとてもよい。道具に頼って失って欲しくないものだ。

もう一つ、黒板発表を僕がオススメしたい理由は「効率」だ。
一見スライド発表の方が効率が良さそうに思えるかもしれない。
しかし、プレゼン資料の作成には膨大な時間がかかる。
少なくとも僕には「やってられない」。
黒板発表だったら、せいぜい発表時間と同じ時間があればいい。
とりあえず発表練習をしてみて、文献や説明がスムーズにいかないところを一度見直せば十分だ。
僕なんか結構準備なしで発表している。
逆に言えば、時間をかけるべきは「理解」であり、
十分な理解ができていない事を発表「できない」がゆえに、黒板は良い。
「スライドがあると安心だから」
よく聞くその理由は黒板発表に挑戦して失敗するよりも、はるかに多くのものを失っている事を知ってほしい。
成長の機会。それより大事なものが他にあるのかい。

少なくとも英語では講演のことを「Talk」という。
「プレゼンテーション」ではなく「トーク」。会話である。
会話がしたい。資料を見せられると、会話になりづらい。
"プレゼン"資料って言ってしまうだろう?

もうあんまり隠す必要もないと思うので正直に言うと、僕はほとんどのスライド発表を聞いていない。
面白くないし、疲れるから。
通常だったら特に問題はない。結局、数学的に面白い講演はほとんど板書だ(卵?鶏?)。
今はオンラインでスライド講演が増え(僕は黒板発表を中継していますが)どうにも困っているけれど。まあ、聞いてなくてもバレないので大丈夫である。

板書が、手書きが、生身が。
一番効率よく、情報を伝える分野があると言う事を知ってほしい。
めちゃめちゃ格好よくない?
カッコイイよ!
数学やろうぜ!

2020年8月16日日曜日

授業のエンタメ化

 今年は、授業をエンタメ化した。
オンラインなのをいいことに、フィルターを使って
女の子に
子供に
おっさんに(もともとおっさん)
なった。
他にも雑談で授業とは関係ない話をした。
オフィスアワーも開いて学生さんとなんでもないお話もした。
毎週の課題ではちょっとした大喜利のお題のようなものを出した。
一緒に集めた感想で、僕のおふざけは好意的に受け取ってもらえていることを知った。

ぜんぶ、オンラインだからやったことだ。
正直に言えば
僕は授業のエンタメ化には反対だ。
普段は雑談もしないし、変に仮装したりなんて、もちろんしない。
無駄に楽しませたりはしない。

遊んだ方が評判がきっと良くなるだろうとは思っていた。
実を言うと、授業を本当に初めてやっていた頃は、ちょっと工夫をしたりしていた。

そのうちに、気づいた。
これ、いらないんだ。
受け入れられないと言う意味ではない。
ただ、感じ取った空気があった。

僕が本当に伝えたいと思って、懸命に数学の話をすると、学生は聞く。
一生懸命、聞く。それがこちらに伝わるほどに、真剣に。
この本気の視線を感じ取ってからは、ふざけるのをやめた。
エンタメは、いらん。
実際、あまりにエンタメ化が過ぎると結局授業の内容が頭に残らないと言う研究も聞く。
楽しかった記憶のほうが残るからね。

学生には、小細工なしの本気の授業はちゃんと届く。
無駄話のような、小手先のテクニックは使わない。
それが、僕の決断だった。

そして、すべてがオンラインになった。
最初は、こだわりを大事にしていた。
けれど、途中で限界を感じた。

なにより、「何も返ってこない」。
そして、学生も、僕も家からほとんど出られない日々が続き、退屈していた。
じゃあ、仕方ない。
そう思って始めたエンタメ化は、とても楽しかった。
フィルターはすごいや。
雑談も、伝えたい「熱」はいつもあって、それを言葉にできてよかった。
全部を詰め込まないと、もたないと感じていたから、だいたい全部を使った。
立派にネタが切れてひいひい言っている頃に、前期が終わった。

楽しかったけれど、よかったら聞いてくれ。

本気で、命をかけて、真剣に「学ぶ」ことは、
その何倍も、何十倍も楽しい。

エンタメ化で本当の楽しさを覆い隠してしまって、申し訳ないと思っている。
早く、いつも通りが戻るといいなあ。

2020年8月1日土曜日

オンライン修行

高校1年生の10月、僕は膝の手術をした。
半月板損傷。本気でやっていた走高跳(こんな感じで)。
リハビリがうまくいかず、結局手術のあと跳べるようにはならなかった。

悔しくて、悔しくて、悔しくて。
身体中から湧き上がるエネルギーの矛先を探した。
ヒカルの碁のアニメをたまたま目にした。
囲碁なら、怪我をしていても、できるな。

弟とルールを一緒に勉強して、遊んだ。
僕は、もう少し勉強してみようと思った。

ネットを探すと、産まれたばかりのネット碁会所があった。
毎日ログインをし、だんだんと会ったことのない友人ができ、囲碁を打って遊んだ。
そのうちに、オンラインで囲碁の指導をしてくれる人が現れた。
実際に対局をして、色々教えてくれた。
学校の図書館に行くと、囲碁の本がたくさんあった。
通学の電車で囲碁の本を読むようになった。

少し勉強して、ルールを学んだ後とくに囲碁に触れていなかった弟と対局した。
負けた。
弟のやつ、パズル系に強めの才能を持っていやがった。
でも、僕は囲碁を学ぶことをやめなかった。
オンラインで毎日毎日対局した。
囲碁の本を読み漁った。

覚えている風景がある。
年末か、年始か。それくらいの頃。家の廊下で母親とすれ違いざまに。
ぼくは何気なくを装いながら、つぶやいた。
「囲碁、本気でやってみるわ」
母に聞いたら、全然覚えていなかったけれど、本気の宣言だった。

しばらくはオンライン、ネット碁をずっとやっていた。
教えてくれる人は結構たくさんいた。
パソコンの画面と毎晩にらめっこ。
そのうちに、碁盤が欲しくなってきた。

やっすい碁盤と碁石を買った。
実際に石を並べてみて、今度は人と打ってみたくなって碁会所へ行った。
家で実際に碁盤を使ってみて、碁会所で対局をしてみて、そして、驚いた。

見える、「深さ」が全然違う。
画面では見えなかった手がたくさん見えた。

オンラインでは集中できないというのは、不慣れなだけか、言い訳か。
幼い時からテクノロジーに囲まれた"ネイティブ"なら大丈夫なのか?
ずっと考えていたけれど、少なくとも僕から見ると「大きな差」がある。
僕は囲碁をオンラインで高校生の時に学んだ。
結構ネイティブじゃないか?

いま、オンラインで数学の話を聞いていても、本当の意味で集中した感覚は得られない。
もちろん、聞かないよりはずっと"まし"だけれども。
深みに入る入り口で、通行止を食らう。

しばらくネット碁を控え、碁盤で勉強した。
本を読んで、自分で考えた。

近所の碁会所のオーナーさんがとても素敵だった。
「本を借りたり、一局打つくらいならいつでもタダでいいから」
お言葉に甘えて、学校帰りにふらっとよっていた。
よくみると、となりの学習塾から中学生くらいの子がやってきて、
おじいちゃんと一局打ったりしている。
今思うと、なんと素晴らしい交流の場かと思う。

商売っ気のない場所は空気がゆっくりしている。
商業主義はそんな心地の良い場所を無慈悲に壊す。
高校を卒業し、僕は地元をはなれた。
しばらくみないうちに、その碁会所は無くなっていた。
タダになんかするからだ。ばかやろう。

高校時代の僕は定期的に通って、昭和の強豪の棋譜を借りて、片っ端から並べた。
タダだったから、いつも申し訳なかったけれど、お金もなかった。

僕は感覚派で、おなじく感覚派の棋士の勉強をすると強くなった。
逆に、地に辛く、読みの正確さで戦う棋士に触れるとしばらく弱くなった。
全ての棋譜をタダで貸してくれたあの碁会所には本当に感謝してるし
無くさないためにできることはなかったかと今でも思う。

通学の電車の行き帰りではずっと詰碁を解いていた。
それだけでなく、数学の授業の時間など演習問題を即座に終わらせ、
またまた囲碁の本を読んでいた。
朝早く起きて、棋譜を並べてから学校へ行った。
間違いなく、僕は、本気だった。

少しして久々にネット碁を打った。
すごい強い相手で、ボコボコに負かされた後、なぜか対戦相手から言われた
「今すぐ師匠を探して上をめざしたほうがいい」
センスをひたすら褒めてもらえた。

どういう成長曲線を辿ったかの記憶があまり定かでないが
「本気でやってみる」
囲碁を始めたばかりで、そう宣言したあと、1年と少しだけたった2月に
僕はアマチュア6段の免状を得ている。

なかなか頑張った記憶はあるが、今はとても自分のこととは思えず
他人のことのようにすげーなぁと思っている。

今、思うことは一つ。
確かにネット碁はきっかけになった。
そこからひらけた道ではある。
でも、僕は囲碁を始めて3〜4ヶ月後から、オンラインでのネット碁は打たなくなった。
リアルで碁盤で打つ時の、本気の集中が好きだった。

これは、まやかしなのか?
オンラインでも、本当は集中できるのか?

色々なことをいう人はいるだろうが、僕は思う。
本物の感覚は、オンラインでは、得られない。

いま、その感覚が忘れられようとしている。
久々に人と会って話した時、
言葉や表情(2次元)を超える雰囲気をやりとりした時、
残る感触が"学び"にも必要ではないかい?

人と会って、話して、"やりとり"をして。
お風呂に入ったら。
眠っていた感覚が生き返る、そんな気持ちの良さがあった。
人は皮膚でも会話をしている。
ずっと忘れていたものだった。

あったんだよ。あるんだよ。
それはどうしても忘れちゃならないものだと、強く僕は思う。
わかりますか?わかって、欲しいです。