2020年5月31日日曜日

ほんほん

「本論文は〜」や、「本章は〜」のノリで本を指したいと思い、「本本は〜」と頭に出てきてしばらく離れず困りました。 
ほんほんは?って言うっけ? 

しばらくしてわかりました。 
「書」ですね、「本書は〜」ですね。 
本を指して「書」とは、なんてかっこいいんだ。

2020年5月24日日曜日

つーゆー

エネルギーがちょっと低空飛行気味。
だいたいの「いつもと違う」お仕事がひと段落して気が緩んだのか。
それでも、いつもと違う今の状況に疲れたのか。

ただ単に、そろそろ梅雨なのか。

元気やーい、と思って
「この授業に関する感想、要望、励ましの言葉などありましたらどうぞ」
と(ちょっとおふざけで)課題の最後に書いておいたらたくさん励まされてしまった。

ぷち職権乱用感(ぱわはら?)。ごめんなさいー。
でも元気でました。ありがとー。

2020年5月16日土曜日

はい、書けません

当然のように文章が書けません。
いま、書けないのは「とても良いこと」だと思い始めました。
数学はぼちぼちできるので、できることをやっています。

2020年5月9日土曜日

初めてのオンライン授業

多くの人が初めてオンライン授業を受けている、している。
僕も初めてで大変だ、と思っていたのだけれど、ふと思い出した。

18年前、2002年、僕は中学3年生。
インターネットが世の中に普及し始めた頃、
思い返せば僕は「オンライン授業」を受けていた。

中高は陸上部で走高跳をやっていた。
弱小部で顧問の先生はほとんど練習に来ない。
入部当初はよかった。先輩や、たまーにやってくる顧問の先生のアドバイスが役に立った。
記録も少しずつ伸びていった。
ところが中学3年生になると(中高一貫にもかかわらず)、走高跳をやる先輩はいなくなり、稀にやってくる顧問の先生も専門は投擲で、レベルが上がると頼りにならなくなった。
記録も伸びなくなった。

そんなとき、僕はインターネットを知った。
当時のネットはビデオ通話なぞ夢のまた夢で、「メール」と「ホームページ」がようやく広まった程度(調べたらネット普及率65%くらいだったらしい)。
今では危ない人がたくさんいるネットの世界は、「新しい物好き」の魅力溢れる人たちであふれていた。
面白いテキストサイトがたくさんあったし、まだ「検索対策」があまり広まっておらず検索結果でトップのサイトはどれも面白かった。

僕はとある大学で走高跳を専門に研究している大学院生さんのホームページを見つけた。
「学生の指導をしています。興味がある方はメールをください」
僕は恐る恐る、メールを送った。
「中学3年生です。指導者がいません。走高跳を教えて欲しいです」

メールで技術的なことに関する質問や課題を送ると
練習メニューや、新しい練習方法などを教えてくれた。
それを実践し、また質問してアドバイスをもらう日々。
練習中は一人だったから、自分で練習の意味や効果をずっと考えていた。
アドバイスの意味も試行錯誤で自分なりに解釈していった。
意味が「わかる」瞬間がたまに訪れる。とても、楽しかった。
そのうちに僕はHTMLを覚え、自分のホームページを作った。
練習内容と感想を書き溜めて、メールでお知らせした。
褒めてもらえると思っていたのに
「練習への感想が甘い。ふざけているように見える」
怒られた。でも、本当にその通りで、反省した。
そんなやりとりが1年ほど続いた後のGW、高校初めての大会で僕は自己ベストを大きく更新した。
メールで知らせると、まるで自分のことのように喜んでくれた。
嬉しかった。

メールだけであったけど、あれはきっと、オンライン授業だったと思う。
その後すぐ、僕は怪我をして、走高跳を断念せざるをえなくなった。
やりとりは終わってしまった。
それでも、一度も会ったことのない先生とのメール、
それを元にした練習の日々は本当に楽しかった。結構結果も出た。

走高跳をやっててよかったなと思うのは、自己ベストを出した日が
「人生で一番高く跳んだ日」
になることだ。響きが好きだ。
だからGWはいつも気分がいい。それは今年だって変わらない。
オンライン授業が僕にくれたもの。

技術が発展して色々できる。オンラインでも、僕でも
なにか、できるかもしれないと、思わせてくれた、思い出。
がんばります。

2020年5月2日土曜日

不必

不要不急と言う言葉が叫ばれて久しい。
必要なもの、というのは何か?も考えたいが、ひとまず置いておきます。
現状僕がインターネットに対して感じている感覚をまとめておきます。

インターネットでは、オンラインでは"必要な"情報にしか触れられない。
「""」をつけた。
オンラインショッピングでは、目的の商品に一発でたどり着ける。
お店では目的の商品が見つからず、色々物色しているうちに"必要でない"ものを手に取る。

文献を探すにしても、検索してお目当の文献があればおしまいだ。
図書館に行けば本来の目的には"不要な"文献にたくさん触れる。

オンラインで、"必要のないもの"に触れ続けるのは難しい。
世界のセミナーがオンラインで開催されている。
いくつか参加しているが、自分の研究と直接の関係を見出せないオンラインセミナーに参加するのは難しい。
僕の体感ではほとんど不可能だと思う。
研究集会で、自分の研究と直接関係のない話を聞くのも"必要でない"。
そう感じながらも、お世話になってる先輩だったり、
たまたま巡り合わせで一緒に飲んだ研究者さんだという理由で話を聞いてみる。
僕だけかもしれない。けれど、「その場にいれば」こんな遊びがとても楽しい。
実を言うと、僕が最近よく研究している「タイヒミュラー空間」(宇宙際ではないです)
はその大部分を、そんな「耳学問」で学んだ。
初めは自分の研究との関連が見出せず、ただなんとなく聞いていた
"必要のない"話が、いつしか自分の研究の中心テーマになった。

そうして、教育に思いを馳せる。
教育現場で習うことは、そのほとんどが"必要のない"ことだ。
喫緊の課題と感じて学んでいる人は、ほとんどいない(社会人学生さんはそう、かも?)。
本来は、それでいい。僕も長いことそうやって、なんとなく学んだ。
けど、今はオンラインだ。
"必要でない"ものに触れるのに、それをオンラインでやることにおける課題は多い。
一つ、受講側へアドバイスをするならば、なるべく対話をするといいと思う。
大勢が参加する授業で発言をすることは、恥ずかしいかもしれない。
けれど、そこは「がんばりどころ」だ。
何回か勇気を出して発言すればきっとすぐ慣れる。
そして、もうひとつ。
授業でガンガン発言したとして「調子に乗ってる。うざい。」などのイメージをもたれるかもしれないが、
積極的に授業に参加している人間に対してそんな感想を持つ相手とは、そもそも付き合わない方がいい。
大丈夫、きっと仲間はいるよ。
とにかく、何もせずに見ているだけならオンライン授業は時間と目の浪費に近い。
(最近、僕はとても目が辛い)
自分で教科書や参考書を読んだ方が、情報を集め、知識を得るだけならずっと効果的だ。
自分の声で質問をすれば"無駄な知識"に触れる際におそらく大切な「肉体的な感覚」を少しでも得られるように思う。

そうして得た"無駄な知識"がどうして必要なのか。
なんとなく伝わっていると嬉しいけれど、
ちょっと長くなったので、またの機会に詳しく。