2019年12月28日土曜日

才能

実家に帰って漫画を読んだ。
「オレに才能なんて無い」
そんな言葉が載っていた。

昔、自分がこれを言っていたことを思い出した。

後ろに、だから努力するんだ、をつけて。

これは、MITで教授をしている日本人の言葉に影響を受けたものだった。

彼が言った言葉を僕も、言った。

「オレに才能なんて無い、だから努力するんだ」


この言葉の後ろに、言い訳が見える気がしてきた。

失敗したとき、僕はがんばった、けど才能が無かったんだ。
そう、言うつもりなのではないか?
逃げ道を残したかったのではないか?
彼はすでに成功している。僕は、まだ、だった。

宣言しよう。

僕には、才能がある。
もし、失敗したなら、それは全て、僕の努力不足のせいだ。


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エネルギーを探していたら出てきた
21歳の自分の文章。ひとまわり。
よいお年を。

2019年12月21日土曜日

線形代数の授業を、しながら考えた。

去年も、同じことを教えたな。
みんな同じように、学んでいくな。
来年、再来年と繰り返されるのだろうな。

人は生まれて、死ぬからなのだろうな。
まったく、人は、社会は、非効率だ。

でも、そんな、非効率が、良いのかもな。
効率を追い求めると、人間味が失われる。
そんなことを、誰かが言ってたな。
無駄なことに、価値がある。なんてね。

それでも、人は積み上げて、
すっごい文化や文明がある。すげーな。

数学は、使われようによっては、いろいろを効率的にする。してしまう。
その学ばれ方に、非効率を感じるなどなど。

絡まってんな。


2019年12月14日土曜日

ハイリホー

背理法というのは、目的の主張が「間違ってると仮定」して、すでに正しいと証明されている事実に"ぶつけて"、矛盾を導く論法である。矛盾は「間違っていると仮定したこと」が間違っているから生じた、つまり目的の主張は正しいのだ、という論法。

論法自体は正しい、だけどこれが「体に悪い」と思っている人が少なからず、いる。
背理法は「正しくない仮定」から議論を始めるので、導かれる主張はすべて「正しくない」。正しくない主張の中で時間を過ごすと、「正しいもの」への感覚が鈍る。いつ自分が正しい世界にいて、いつ自分が正しくない世界にいるのか、きちんと記憶して、分けて体に入れられたらいいのだろうけど、少なくともぼくはそんなに賢くないので、背理法はいつも怖い。正しいものを知るためには、正しい世界にいる感覚を体で覚えるのが大事だと思っている。

そんなことを思って、試験というものに思いを馳せてみた。
間違えると、バツがつく。とてもいやで、気になって、落ち込む。
周りにも言われるし、どうして間違ったかを見直す。次は間違わないように。間違わないように。
ぼくも学生のころ、そうやってきた。
いつも正しいのか、不安だった。

本当は、「正しいとき」に重きをおいた方が良いのではないかと思い始めている。
自分が正しい議論をしているときに、きちんと「正しい」と信じられること。
これが、とても難しい。でも、本当に大事。
この訓練が、おろそかになっていないだろうか。
演習問題に答えが欲しいと言われる。
ただ、多くの本に答えが載っていないからこそ、「自分が正しい」状態がどういうものか、訓練ができるのではないかとも思う。

正直、僕自身まだまだできていない部分が多い。

だけど、数学に限らず、何かを自分でやろうと思ったら。
なかなか認められないこともきっとある。
正しいと、信じられる何かを持っていることは大事だろうなと思う。

2019年12月7日土曜日

小さな

「ごめんなさいね。パン一つ落としてしまって。ご馳走様でした。」
「あ、そうでしたか。有難うございました。」

近所の、小さなカフェの店長さんと仲良し。
「いつも素敵なご家族なんですよ。」
店に一人残った僕に話しかけてきた。
「確かに、いい雰囲気でしたね。」
「最後の一言、お店としてはとても嬉しいんです。」
「パンですか?」
「はい、やっぱり一つだけ残っていると、色々と考えてしまうので。」
「ああ、なるほど。そうですよね。」
「いい、ご家族なんですよ。」

嬉しそうだった。
路地裏にある、小さいカフェ。
気に入って、結構な頻度で通っている。

小さなカフェが一つあって、
それがきっかけで
街の中に暖かい時間ができる。

こんな「カフェ」みたいな場所に、数学があったらいいかもなと思っている。

小さな数学が一つがあって、
それがきっかけで
心の中に暖かい時間ができる。

こんな風にならないかな。
うん、ならないか(笑)