2020年4月28日火曜日

無題

文章が書けない。
誰にも言われなくても、あんなに書いていた文章が、書けない。

別に仕事でもなんでもないし、書かないと誰かが困るわけでもないのだけれど。
でてこない。

理由は知っている。四角い画面を見過ぎなのだ。

そんなに、小さな画面ばっかりみなさんな。
外をみてみい。世界は広がってるさ。

って、言いたい!言いたいのだ!ずっと言ってきたのだ!

無題!

2020年4月19日日曜日

科学と文化

或る日「突然」失われた日常が戻ることはないだろう。
戻るとしたら、徐々に、ゆっくり、少しずつ。時間をかけて。
僕個人の予想だと、ながーい時間がかかる。
その時に、何を戻し、何を変えるべきか。
科学と文化が協力して、考えたら素敵だ。

科学は「何ができるか」を
文化は「何をすべきか」を
それぞれ提案して。

何ができるかが分からなければ、何をすべきか、分からない。
何をすべきかが分からなければ、何を作ればいいか、分からない。

科学が、文化が、芸術が、大切に扱われるべきだと言うならば
こういう時に進むべき「未来」を提示して見せる必要がないか?

オンライン技術はほとんど全部、外国産で
アーティストや芸術家は、なんか「文句」と「いいね」ばっかり集めてる。
もちろん、全てがそうではないだろうし、難しい、苦しいのもわかるけど。
だいたいは、残念ながら。

かく言う自分も、なんにもない。
ただ。

数学は、科学と文化の中間地点にいるはずだ。
数学は科学の基礎である。
同時に、数学の研究は文化的だ。
「正しさ」の感覚。
先が見えない時に「正しさ」を嗅ぎ分ける嗅覚。
きっと役に立つはずだ。

ひとまず目の前の課題として、
どうやって学生を学校に来れるようにするかを考えている。
半分?1/10? 一部だけでも、なるべく早く教室で授業をするための方法を考えている。
オンラインと対面の両立が必要だ。黒板を中継するための方法、実は大体できている。
この騒ぎは年単位で続くと思っていて、その間、新入生が
入学して一度も大学で授業を受けられない期間が続くのは違うだろう。
いつまでも何もしないわけにはいかない。
「できること」を探していくべきだと思う。
「スペースに余裕がある教室での授業」などは「できること」ではないか?
少なくても「すべきこと」だと僕は思う。
今はまだ早いにしても、社会全体として、どこかで舵を切る必要がある。
「できること」と、「すべきこと」を、きちんと考えて。

一方で、僕たちは大きく学んだこともある。
淀んだ空気はきれいになり、濁っていた川は透明さを取り戻した。
変えられないと思っていたことは、いとも簡単に変わった。
元どおりに戻す必要はないし、正直、戻してはいけないものもたくさんあるだろう。

命についても考える必要があるだろう。
「助けられるはずの命」という言葉を度々目にする。
いずれ失われると。
いま、実際のところは救われた命のほうがずっと、ずっと多いだろう。
命が人間だけのものじゃ、ないならば。地球は少し、きれいになった。

3月の中旬頃に英語で「地球にとってのウイルスが人間であり、コロナはそのワクチンである」というツイートが回ってきた。極論かもしれないけれど、この類の主張が「日本語」で表現されているのが散見されるようになったのは本当に最近だ。

海外がいつでも正しいとは言わない。
僕はこだわって、日本に居座っている。いいところがたくさん、たくさんある。
世界中で、「課題」が浮き彫りになった。
そのほとんどが、「やればできる」ことだったように思う。
考え方の、心の問題だった。

ずっと思っていた。物質的な豊かさはもう限界で、これ以上追い求めても結局苦しくなるばかりではないかと。
一方で、精神的豊かさは大いに、大いに成長の余地がある。

きっと、そういう時間だ。
さあ、世界が、日本が、僕が。
何を考えるか、正直に言えばとても楽しみである。

2020年4月11日土曜日

センス

オシャレが苦手だ。
キライでなく、ニガテ。上手にできない。
どんな服を着れば良いのか?
素敵なインテリアとは?

上手にできない。でも、オシャレなものは素敵だと思う。
カフェによく行くのは、僕のニガテなオシャレをサービスしてもらえるから。
(注:これを書いたのは結構昔です)
そのほか、絵を描いたり、歌を歌ったりするのもニガテ。
面白おかしくお話しするのも得意でない。

だから、僕はずっとセンスがないんだと思っていた。
そして、評価されるものはいつもセンスに溢れてた。

センスがないと思っていた僕は、事あるごとにどこかで小さくなっていた。

だけど。気づいた。
自分のことを、自分で褒めるのは、はしたないけれど。
それでも、聞いて欲しい。

僕には、少しだけ思考のセンスがあった。

思い返すと、最初にそれを意識したのは囲碁を学んだ時だった。
僕は高校時代、1年とすこしだけ囲碁を学んだ。独学で。
そして、アマチュア六段の免状を持っている(頑張った)。
その時に使ったのが、磨かれたのが思考のセンスだった。

囲碁では、その枝分かれの数が、人間の理解の範疇を超えている。
だから、面白い。最近はコンピュータの方が上手だけれど。
全てを理解できない人間が囲碁を打つ際に使うのが、感性だ。
「一目千手」
プロ棋士が一瞬で読む手の数を自らそう評したが、実際はもっと多い。
時と場合によるが「次の3手」くらいは一瞬で見えることも多い。
中盤で150手の可能性があって、「次の3手」が瞬時に読めたら150*149*148で約330万手をみている。
そこから、一つを選んでいる。もちろん全部を見るわけでなく「感性」が教える少ない候補から選ぶ。
思考のセンスが必要だ。
今はすっかり忘れているが、当時はあやふやでつかみどころの無い局面こそに、自信があった。
感性なら負けないと思っていた。
この思考のセンスは囲碁をやることで磨かれたと思っている。

僕は高校時代、偏差値が分からなかった。
偏差値の順番にいい大学だと言われて、さっぱり分からなかった。
理屈は理解しても、分からなかった。
この「さっぱり分からない」と思えたところが、センスだ、と今は思っている。
実際、偏差値は全てではないのだから。それをきちんと感じ取っていた。
その感じ取った何かに、ちゃんと身を委ねたところがエライ(自分で言うやつ)

いま、数学を研究している。
計算能力、証明能力。全然足りない。
テーマ選びのセンスで戦っている。
テストだけなら、僕よりずっと優秀な人がたくさん、たくさんいる。
それでも、数学の研究ではちょっと評価されたりもしている。
果たしていつまでもつのか、どきどきもしている。

この感覚を磨くのに、ひとつ大事だと思っていることがある。
自分で選んで、そしてその選択に身を委ねることだ。
これはかなり、勇気がいる。失敗もする。
なるべく若いうちに、出来るだけ「選択と失敗」を繰り返すといいと思う。
若いうちなら、ほぼノーダメージだ。
確かに傷ついたり、凹んだりするけれど
少し年をとるとわかる、若い時のそれはほとんどノーダメージだ。
と言っても、いま、30代前半。今の僕でもせいぜいプチダメージだ。
どんどんやる気でいる。
多分あと10年もしたら、結構痛いんじゃないかと思っている。
それでもやる気でいるけれど。

自分の理解の範疇を超えた選択のなかから、何かを選ぶ。
そんなセンスがある。ただ、それだけを言いたかっただけなのに、アホみたいに自慢してしまった。
この辺のところは、本当にセンスがない。

2020年4月4日土曜日

がんばってマスク・手洗い・いろいろ自粛

「がんばってマスク・手洗い・いろいろ自粛」というのはちょっと危険だ。
人は、必ず「がんばれなく」なるからだ。
一ヶ月ならば「がんばれる」。
けど、おそらくこの騒動は最低半年、個人的には数年単位で続くと思っている。
その期間、頑張り続けるのは不可能だ。
とくに、マスク・手洗い・いろいろ自粛は予防だ。全く結果が見えない。

数年間「全く結果が出ない努力」をしたことはあるだろうか?
奇しくも数学は"そういう"分野だ。
僕が初めて論文を書いたのは、修士2年間の後、博士課程の1年目の終わり。
約3年、全く結果が出なかった。
人生をかけた挑戦だと思っていたのに、徐々にがんばれなくなって、
それが、自分の弱さに見えて、とても辛かった。
今は少し分かっている。人は、必ず「がんばれなく」なる。
だから、「がんばれなくても、続けられる」よう
「自分改革」を少しずつだけど、ずっとやっている。

「いかにして続けるか」
それをいま「がんばって」考えるといいと思う。
繰り返すけれど、この状況に「年単位で対応する方法」が必要だ。
楽に、楽に。できたら本来の目的とは外れた、別のモチベーションもあったらいい。

僕は気楽に
「遠隔授業の技術というのは面白いおもちゃだなー」などと
遊びながら楽しく生きているが、決して舐めている訳でもふざけている訳でもない。
数年続けるということの難しさを少し、知っているだけだ。

「数学の役に立ち方」というのはこう言う経験もあると、こっそり思っているのです。
なんでもそうかもしれないけどね。