2017年12月16日土曜日

ケチャップ

ぼくは最初の論文を書くのが遅い人でした。

簡単に言うと、工学から純粋数学へ移るという、
なかなかどうして頭のおかしいことをやったのが
理由です。

でも、ぼくはかなり「準備をして」数学の世界へ飛び込みました。
大学院に入りたての段階で、
基礎知識は博士課程に進むつもりで研究してる友達と比べても
それほど劣るものではなかったかと思います。

でも、今となってみると「数学のやり方」をわかっていなかった。
とくに、大学4年間を数学科で過ごすと''自然''に身につく感覚のようなものがどうやらあるようです。
準備がそれなりにできていて、セミナーなどを順調にこなしたぼくがいざ、
研究の段階に入ると、急に何もできなくなりました。

何かが足りない。

師匠が気づいたのは大学院の4年目(標準は5年)のはじめくらいでした。
共同研究者や周りの人にそれを''補って''もらいながら、
それが何か、わからないままに博士号をもらいました。

きっかけ一つで、論文なんていくらでも書けるようになる

拠り所にしていたアドバイス。

博士号を取った後、どこかで教えるまえに、
ぼくはその何か、きっかけを掴む必要がある。

そう思い、一人で研究をするように心がけていました。

苦労して、失敗して、少しだけその「何か」がつかめた感じがした。
それは、数学がひとりでに動きだしたときでした。

ぼくが間違えても、数学はそれを教えてくれて、正しい方向まで示してくれる、そんな経験。

いま、ケチャップがドバッとでています。
まとまりつつあるものから、まだまだこれからなものまで。

こりゃ、大変だな。

そんな気分です。

2017年12月9日土曜日

数学と工学4

工学部ではよく聞く「役に立つ」ということば。

この研究はこんな風に「役に立つ」
制御理論はたとえば飛行機を安全に飛ばすのに
線形代数はたとえば画像、映像を編集するのに
整数論はたとえば通信の安全性に、正確さに
グラフ理論はたとえばアルゴリズムを作るのに
プログラミングができれば、たくさんのものを作るのに

役に立つ。

役に立つって、なんだ?
きっと考えないほうが良いことを、考え始めてしまったのです。

そのとき、ぼくが手に持っていたのは携帯電話でした。
世の中にあふれている、工学部で考える「役に立つ」ものの代表格。

確かに、便利。
いつでもどこでも、話せる、メッセージを送れる。

でも、だから、いつでもどこでも、電話がかかってきて、メッセージがやってくる。
これを嫌がっている人は結構いる、とくに数学をやっている人では

ぼくは、それに加えてなんというか、距離感、が苦手だった。
ひとと、ひととが仲良くなるのを妨げているような、そんな感じ。

携帯電話がない時代の、待ち合わせってすごいなといつも思う。
ともすると、現代では奇跡みたいな扱いを受けることを
日常的にやっていたんだろうなと

まぁ、適当に現地で!
それができるのは本当に便利だし、すごいと思うけどその分
当時必要だった信頼関係とか、暗黙のルールとか
ちょっと素敵なものが"必要なく"なってしまっていると思っていた。

さらに、インターネットでたくさんのものに触れられるようになり
どんどん、どんどん情報過多に。

広く薄く、広く薄く。
そんな感覚にどうにもうまく付き合えない。

そんなとき、数学に出会い、その
深さに、静けさに、確かさに
あぁ、なくなりそうなものを、とても大事にしている世界があると思いました。

たくさんの家電ができて、いろいろな作業が"楽に"なった。
けれど、大変だったからこそ、よく見えた"工夫"があったはず。

世の中がどんどん"便利に"なっていくなか、
知らず知らずのうちに失ってしまいそうなものが
ここにはあるなと思ったのです。

ぼくの高校では、1年生の時に「校長先生の授業」があった。
ものすごく人気のあった校長先生がやめた、そのあと1年目の校長先生。
とんでもない気合いで、本当の意味の
「豊かさ」とは何か
そんなテーマで授業をしていた。
間違いなく、本気の、授業だった。

まだガラケーを使っているぼく。
「遅れてる」と言われることもある。

でも、ぼくは"そっち"が本当に前なのかわからなかった。

当時の悩みを思い出しつつ書いて、まとまりがなくなっていますが
その後、数学を選んだことは、
ぼくにとっては
正解だったと思っています。
当時は知りませんでしたが、数学は本当に自由な学問で
そしてぼくはとても自由人でした。ぴったり。

とりあえず、数学と工学、おわりです。

2017年12月2日土曜日

数学と工学3

続いています(数学と工学)。

数学をやりつつも、サークルで演劇もしていました。
11月に先輩の卒業公演があり、それは夢中で準備しました。
その間、勉強はぼちぼち。
実は演劇も、数学と同じくらい面白いと感じていました。
高校のときにもスポーツ、囲碁、いろいろ面白いと思っていました。
そして、一つわかっていたのは、
「本気で」やらないと本当のところはわからないこと。

舞台を本気で作るのは楽しかった。
同時に、細かないろいろで、自分のセンスのなさも、感じてしまった。
(演劇経験は、今、数学の講演をするのに生きています)

卒業公演が終わった後、ぼくは数学に「本気」を出すことをした。

高校時代、囲碁をやっていて、ある棋士が言っていた言葉。
「本気で囲碁を勉強していたときは、人差し指の爪がのびなかった」
碁石を打つとき、人差し指の爪をなぞるように碁石を回すので、
削れて、爪が伸びなかったのだそう。

高校のとき、自分なりに、囲碁を一生懸命やっていた。
1日最低5時間くらいは碁石にさわっていたはず。
でも、爪は普通にのびました。

のちに、爪が伸びないためには、
ご飯、トイレ、そういった最低限を除いた「すべて」
を捧げる必要があったと知りました。

そこ、を目指しました。
目指したものの、きっと理想の"半分"程度しか実現できませんでした。
それでも、人間は1ヶ月、そんな生活をすると
会話ができなくなるということを知りました。

実を言うと、今でもそうで、数学に頭を使い過ぎてからひとに会うと
うまく会話ができないことが多いです。
なので、ひとと会う前には少し、頭をやすめる時間をとるようにしています。

ちなみに、ですが、会話ができなくなったあと、
ぼくは少しの間、(めずらしく)テレビをたくさん見ました。
会話のプロが楽しく話すのをみて、
いろいろなコツを勉強しました。
なんだか、本当にいろいろなところに学ぶところがあって
それは面白い体験でした。
ぼくはそんなに話がうまいわけではないですが、オススメです。
(今はテレビを持っていませんが)

話は戻って数学。
工学から、数学に転向したい。
そういったとき、ほとんどの大人に反対されました。
当時のぼくにいまアドバイスするならば、

"爪が伸びないレベル"の努力を継続できれば大丈夫

そんなことを言ってくれるひとはいなかったので、
ネットの海の片隅に、書いておきたいなと思っていました。
ようやく書けました。

当時を思い出すと、現在のぼくはずいぶん努力不足。
でも、これを書いて「がんばる」の自分なりの意味を確認できてよかったです。

もう少し、当時考えていたことを書きたいと思っているので、続きます。




2017年11月25日土曜日

研究者の声

大学の研究所のホームページに「研究者の声」というページがありまして、
そこにぼくの書いた、今いる研究所での研究の魅力を載せていただきました。
英語のページもありまして、はじめて
自分で書いた日本語を人の手で英語にされる
という体験をしました。

日本語を読んでいただくと、もしかしたら分かってもらえるかもしれませんが
英訳、難しいだろうな、と思ってました。
どうにも難しかったようで、申し訳ないと感じつつも
結局ほとんど、自分で直した英語です。

当たり前かもしれないけれど、言葉にするということは
頭の中にある名前のないアイデアとか、考えとかに
名前をつけていく作業であると思いました。
一つの言語で書いた言葉は、その言語の背景なども鑑みて得た表現であって
それだけが正解ではない。
それを''直訳''されると、やっぱり違和感がありました。

一つの概念が色々な理論から理解できて、より一層その概念の理解が深まる。
数学でよくある、そんなことを思ったりしました。

自由に書いてください!
と、自由人のぼくに依頼するなかなか自由な仕事でした。
もともと「ジャグリングの中の数学」というタイトルでやった
一般向け講演を気に入ってもらえたのがきっかけということあって、
ジャグリングをしているところを撮影させてください!
といわれたので、ジャグリングしている写真ですが、
結果として、なぜジャグリングしているかわからない
文章になりました。
よろしければどうぞ(ぼくは二人目の日本人です。)
日本語:http://www.wpi-aimr.tohoku.ac.jp/jp/about/staff/voice.html
英語:http://www.wpi-aimr.tohoku.ac.jp/en/about/staff/voice.html

2017年11月18日土曜日

数学と工学2

続きです。(数学と工学1はこちら

「わからない」ことが「おもしろい」につながったのはラッキーでした。
ひとつ、きっかけは囲碁やスポーツ
囲碁は基本的に「わからない」。
最近のAI の発展で明らかになったことは
トッププロでさえ囲碁を「わかって」いなかったということ。
だからこそ、おもしろい。
スポーツもどんなトレーニングをすれば強くなれるのか、
わからないことが多い。
高校時代、囲碁やスポーツに夢中になって、「それでもわかりたい」と
試行錯誤したのが、それはもう、楽しかった。
たくさん調べて、納得がいかないところは自分で考えたりした。
その道へはすすめなかったけれど、
「こうやって生きていけたら」となんども思っていた。

そしてもうひとつ、それでも、授業で教えられているということは
きっと頑張ればわかるんだろうということ。
幸運は重なって、日本は(英語圏以外で)世界的にみてもめずらしい
「母国語で書かれた大学レベルの本」
が多種多様にある場所だったのです。

数学の本を手に取り、どこかで聞いたか読んだか、
こんな勉強をしました。

まず定理を理解して、定理の主張だけを書いた紙を作る。
次の日、定理の主張だけ書いた紙だけをみて証明を自分で考える。
終わってから先に進む、もちろん主張だけ書いた紙を作りながら。

日々、繰り返しました。
囲碁を勉強していた時、プロの対局を一度碁盤に並べて、
少し経ったあと、何も見ないで並べ直す。
そんなことを高校時代やっていたことを思い出していました。
そして、うまく並べられないところは、理解できていないところ。

数学も全く同じでした。(この勉強法、とてもオススメです)
少しずつ、授業がわかるようになっていきました。
もしかしたら、むかし、追い求めていた生き方が、
数学をやればできるんじゃないか。

期待で気合も乗ってきていました。

(どうしよう、たぶんこれ結構)つづく

2017年11月11日土曜日

数学と工学1

少しだけ、昔を思い出しています。
よく聞かれる質問
「どうして工学から数学、トポロジーへ専門を変えたのか?」

工学に飽きちゃったんですよ
数学が面白くて

いろいろ適当にごまかしてきました。
工学から数学。ほとんどのおとなが「やめておいた方が良い」といった転向。
理由はたくさんありました。
すごく大事だったはずなのに、油断すると忘れそうになるのでちょっと書いてみます。
きっといろいろ書きたくなるのでタイトルに「1」をつけました。

大学時代、まぁいろいろありまして、1年ヒマになりました。
がんばれば前に進めたけれど、そっちが本当に''前''なのかよくわからなかったので
1年のんびりしようと思ったのです。
大学というのは楽しい場所で、やろうと思えばいろいろな学科の授業に潜り込めます。
ぼくは工学部でしたが、情報学部とか中国語とか、ほかにも
体育専門の授業で

オリンピックのメダリストがただ自慢するだけの授業、とか
ひたすらサッカーの試合や歴史をみるだけの授業、とか

いろいろ潜り込みました。
経営学部の

歴代、売れたキャッチコピー

みたいな授業もよかったです。
芸術専門の授業とかにも行けばよかったな、と今は思ってます。
(全ての学科が1つのキャンパスにある筑波大学、すばらしい)

その中で、ちょっと興味を持って潜り込んでみたのが
数学科の「トポロジー入門」
という授業でした。
グラフ理論という工学部でもやる分野がありまして、
それがなにやら''トポロジー''なる分野の一つと聞いて。

いろいろな授業はひょっこり潜り込んでも
なんだかんだでちょっとはわかる部分がありました。

この「トポロジー入門」を除いて。
最初の一言目から、意味がわからない。

後になってわかるのですが
「トポロジー入門」は3年生向けの授業で
「集合と位相」という授業を1年、学んでいる前提でした。
そして数学は積み重ねの学問なのでした。

黒板に書いてある記号すら、理解できない。
授業一コマ、呪文を聞いているようでした。

普通はあきらめるのかもしれませんが、
ぼくは、ヒマだったので・・・

おもしれぇ。

ちょっと頑張ることにしたのです。

つづく。

2017年11月4日土曜日

かわ

数学をみていて、あぁ、ここには大きな川が流れているなぁと感じることがあります。
議論に器の大きさがあって、舟を浮かべるだけで、どんどんすすんでゆく。

大きな川のまわりには町ができる。
川がいろいろなものを運んでくれるから、
それを利用しようと人々があつまる。

昔、タイ人の友達に、
なんでタイはそんなにご飯が美味しいのか?
と聞いたら
「大きな川があったからさ」
と言われた。
いろいろな国のよい食文化が''流れて''きたのだそう。

大きな川は、少し水を横に流しても、少々せき止めてしまっても
変わらず、ゆったり、けれどもたくさん、運んでくれる。

最近、自分でやったお気に入りの一つは、
そんな大きな川に乗った感じの数学でした。

ほんとは、まだ見つかっていない
隠れた大きな川を
いつか見つけてみたいなと思っています。

2017年10月28日土曜日

成長

空を飛ぶ必要がなくなった動物の羽がなくなっていく様子もやっぱり進化という。

その動物は羽の変わりにやっぱり何かを得たのかな。


羽を作るための栄養を節約、とかは出来ている気がする。

でも、羽をなくした後に先祖が空を飛んでいる様子を見たらなんか切なくなる気がする。


それとも空を飛ぶ先祖が見逃していた地上の何かを誇りに思うのかな。



空を飛ぶ必要が出来た動物に羽が生えたらそれはもちろん進化という。

その動物は羽の代わりにやっぱり何かを失ったのかな。


身軽さを得るために羽以外の部分は少し弱くなる気がする。

でも、羽を持っていない先祖を見たらやっぱりちょっと得意な気分になるのかな。


それとも、地上より広い、空に生まれた仲間との距離とか、気になるのかな。




特に変化の必要のない動物がそのままの形でいることは進化とは言うのかな。

何も変わらないという進化をしたのかな。


でも、先祖と何も変わってない自分対して、なんか虚しい気分にならないかな。

それとも、変わらない自分をちょっぴりうれしく思うのかな。




久々に変なことを考えている僕の頭。

得たり失ったり何もなかったり。

でも選んだのも僕の頭。
====================================
10年前、2007年10月に書いた文章。
ぼくが数学を本格的に始めたのはこの少しあと。
10年になるんだなぁ。
変わってるような変わってないような。
全部合わせてきっと成長。

2017年10月21日土曜日

景色

数学の話をするとき、ぼくは見てきた景色をお話ししている感覚に近いです。
数学はもちろん文章、論理で書かれているのですが、
なんどもなんども咀嚼して、わかった、体に入ったと思えるとき、
それが景色のように、絵のように
感じられるのです。

そうしてみてきた絵は、
数学の言葉に直すと
いつでも、だれでも
同じ景色にみえるようにすることができます。

ずうっと昔の数学者が見てきた景色と
そのまま同じ景色を、
僕らも見ることができます。

ただ、全く同じ景色をみても、感じることは違います。
見つかったたくさんの景色は意外な繋がりがあったり、
一つの景色がどんなものに囲まれているかがわかったりする。
そうすれば、同じ景色も違って見えます。

また、同じ景色を見ても、ひとや、
同じひとでもタイミングによって見え方が違う。

ここまで書いて、これは物語や絵や歌
他にもきっといろいろ
よくあることだと思いました。

数学も、仲間に入れてやってください。

2017年10月14日土曜日

翻訳

片平まつり、簡単にいうとオープンキャンパスがありました。
小学生向けのイベントで、科学で遊んでもらおうというイベントです。

うちの研究室のドイツ人の方が、頑張ってポスターを作ってくれました。
英語で。

それを、小学生にわかるように、日本語にしようとすると
うーん、難しい。

そのポスターの英語は、きっと英語が母国語の子供には伝わる。
けど、それを直訳すると全然''子供向け''にならない。

日本語はあいまいな言語、科学には向かない。

そんなことが言う人がいたのを思い出しました。
作ってくれたドイツ人の彼にいろいろ話をきいて、

どのような話をする予定か、
どんなことを子供に伝えたいのか、

それをまとめて、一つ一つ、日本語にする。
そうやって出来上がった日本語のポスターは
''子供に優しい''感じになった(と少なくともぼくは思えた)。

あいまいだからこそ、表現力がある

そんなことを感じたり。

むかしは英語に憧れていて、
英語で思考もするべきだと思ったり
していた。
もちろん英語を推進することはよいこと。
他の言語を学んだからこそわかる、母国語のよさもたくさんある。

ただ、いまは、日本語で考えたい。
数学、科学をやるのには遠回りになるのかもしれないけれど、
時代に逆行しているのかもしれないけれど、
日本語で理解したい。

なぜか?と言われるとうまい答えはないのですが、
そんなことを思って、このブログも書いております。

2017年10月7日土曜日

レーゲンズブルク3

ドナウ川、まぁ大きな川がレーゲンズブルクを流れています。
大きな川とか湖とか、たくさんの水が静かにある風景が好きです。


老若男女、たくさんの人があるいていましたが、
ドナウ川の川沿いには柵がありませんでした。
海外はそういうところが多い気がします。

バランスを崩したら落っこちてしまいそうな風景をみて
むかし、いろいろな選択肢の中、進む道をえらぶとき
「死なないために、生きたくない」
とずっと念じていた事を思い返したりしました。

なんだろう、気がつくと自分の進む道に柵を作って、
落ちないように落ちないようにしているような気がしました。

危なそうな道、落っこちそうな道
いつもそこに向かうべきとは思いませんが、
それだ!と決めたら
駆け抜けてしまうのが一番安全だったりする。

ドイツでは女性の平均身長がぼくよりすこし高いと感じるくらい、
みんなおおきいです。
そして、毎食毎食、でっかいお肉やら大量のパスタがでてきます。

でっかい川、でっかい人たち、でっかいご飯。
きもちはでっかくなれたような気がします。

太っただけかもしれません。

ということでレーゲンズブルク日記、おわります。

2017年9月30日土曜日

レーゲンズブルク2

このまちは、歴史にあふれている。
少し昔の、そのまた少し昔くらいの時代、
レーゲンズブルクはとても大事なまちで
いまは、まちごと世界遺産。

ぼくにとって初めて来るドイツの田舎町であり、
他のまちのことは知らないのだけど
このまちの「かんかく」が好き。

建物と建物のかんかく
まち行く人との程よいかんかく

歩いて大学に向かう途中、ハトがいて
おっきい葉っぱが足にくっついて
ちょっと大変そうにテコテコ歩いていた。

ぼくと、きっとお散歩中のおじいさんは
一緒のタイミングでそのハトを見つけて、
しばらくハトを見て、そのあと目があって
ふたりで一緒に笑った。

目があった瞬間、きっと共通の言語がないと互いに察した。
でも、目の前でおきてる
ちょっぴりおかしい出来事をちゃんと分かり合えた。


普通に食事をしていると、
となりのひとが

「おいしいかい?」

と話しかけてくる。

こんなのただ笑顔が増えるだけなのに
なんでいままであんまり経験なかったんだろう。

レーゲンズブルク
よい、かんかくのまちです。

きっともう少し、つづく。

2017年9月23日土曜日

レーゲンズブルク1

ドイツのレーゲンズブルクという街に来ています。
海外にいるので普通の日記を書いてみます。

今回は(お金がなくて)タイ航空を使ってみました。
チキンカレーライス、と言われて出てきた機内食が
タイ料理感満載でよかった。
タイ料理好きなのでタイ航空はなかなかよいです。

バンコク経由で来ましたが、
意外と経由地があったほうが時差ぼけが楽なのかもしれない。
いつもより元気です。

ミュンヘン空港では電車などの関係でちょっとした待ち時間。
Info ゾーンで「暇なんだけど、どうしたらいいですかね?」と
聞いたら、お姉さんに困った顔をされました。
すると、隣にいた、のちにルーマニア在住、国籍ハンガリーとわかる兄さんに
「おれもトランジットでひま!」
と言われていろいろお話ししました。

ルーマニアの教育や経済状況、政治など色々な話を聞きました。
先生の給料がすごく少なく、ほとんどが実家暮らしであるとか
才能や、やる気のある子供にチャンスがなくてもったいないとか
その昔、ルーマニアという国がどれだけ大変だったかとか
いろいろ話してくれました。

聞くと、大学院まで物理を学んでいたそうで
数学をやっていると言うと

なんとなく似た匂いがしたよ

といって笑っていました。

数学者として、宇宙の始まり、ビッグバンの理論についてどうおもうか?
そう聞かれて、よく知らないけど信じてるよ、というと
「おれは信じてない!」
と怒られました。


彼はミュンヘンからサンフランシスコへ行くと言っていました。
いまはITエンジニアでルーマニアの中では給料がいいそう。
ルーマニアが好きで、
いろいろ学んで持ち帰ってやろう
そんな気迫が見え隠れしてました。

楽しいおしゃべりのおかげで時間はあっという間でした。
時間が来て、お別れをした後は
電車でレーゲンズブルクに。
ヨーロッパの電車移動は風景が見れていいですね。

そうしてようやく宿にたどり着きました。

つづく、たぶん。

2017年9月16日土曜日

でも

とある週末、ストリートジャズフェスティバルということで
商店街が音楽にあふれていました。

音楽を聴くのは楽しく、また
楽しそうにジャズを生み出す人たちをみるのは
心地よい。

ふと、自分は小さい頃から、歌うこと、
演奏することが苦手であったことを思い出す。

でも、音楽は好き。


数学やってます。
そういうと、数学は苦手でした、と返ってきたり
へぇと微妙な顔をされたりします。

そんな人たちも、苦手で、ちょっと嫌だったけど
数学もおもしろいな。
そう思ってもらえるために、なにができるのか、
少し考えました。


みんながみんな、数学がおもしろいと思う世界。
それはそれで、変な感じ。


自分も中学高校の数学はあんまり好きでなかったり。


とりあえず、数学をやってるらしいあいつは
なんだか楽しそうだと
思ってもらえるように、なろうと思いました。

2017年9月9日土曜日

記憶

よく、匂いは記憶と強く繋がっているという話を聞きます。
たしかに、ふとした匂いで
様々な記憶が思い出されることがあります。

同じように、ぼくは数学で記憶が蘇ることがよくあります。
むかし、自分でやった証明を思い出すと、
それを、いつ、どこで、どんなことを感じながら証明したか
一気に頭に浮かんだりします。

あぁ、この議論、海外でお散歩している時に考えたな。
その時の景色が目の前に広がります。

つらいことがあったときに学んだ数学をみて、
それを思い出してしまったりもします。

そのうち書こうと思っていますが、
ぼくにとって集中は
「周りの情報が遮断される」
状態ではなく、むしろ
「たくさんの情報が踊るようにあたまをめぐる」
ような感覚に近いというのが関係するのかもしれません。


いろいろな思い出をとりだすきっかけとなる
ぼくにとって大事な数学たち。

アルバムのようにきちんと
とっておきたいです。

2017年9月3日日曜日

Mini-Workshop on Random links and 3-manifolds、講演メモ1

講演予稿をブログに書いてみるという実験です。
予稿というか、メモです。
4コマ講演するのでそのメモです(詳しくはこちら)。
間違い等の可能性があります。教えてください。
論文を元に講演しますが、1コマ目は自分なりにグロモフ双曲空間についてお話しします。
(著作権が心配になったので1コマ目だけ公開します)

1コマ目:グロモフ双曲空間の復習

  • Quasi geodesic とMorse 補題
  • Tree-like 性質
  • グロモフ積とShadow の定義、基本性質

$(X,d_X)$:距離空間

定義:
  1. $\gamma:I\rightarrow X$ が測地線(geodesic)である$\iff$ $\forall s,t\in I$, $d_X(\gamma(s),\gamma(t)) = |t-s|$.
  2. $\gamma:I\rightarrow X$ が$(Q,c)$- quasi-geodesic (qg)である$\iff$ $\forall s,t\in I$,
    $$\frac{1}{Q}|t-s|-c\leq d_X(\gamma(s),\gamma(t))\leq Q|t-s|+c.$$
  3. $X$ が測地的である。$\iff$ 任意の$x\not=y\in X$ に対して、$x$ と $y$ を結ぶ測地線が存在する。
  4. 測地的な距離空間$X$ がグロモフ双曲的である$\iff$ すべての測地三角形が$\delta$-thin.
Morse 補題: $X$:グロモフ双曲空間
その時 $x,y\in X$に対して、$x,y$を結ぶ任意の二つの$(Q,c)$-qgは互いの$L$近傍に含まれている。$L$ は$Q,c,\delta$ のみできまる($x,y$によらない)。

Tree-like 性質:$X$:グロモフ双曲空間
$\exists K=K(\delta)$ s.t. 任意の4点 $x,y,z,w$ に対して$\exists  T:\text{tree}\subset X$ such that

  • $T$ は4つのvalence 1 の頂点を持ち、その頂点が$x,y,z,w$
  • $d_T$ を$T$上で測った距離とする時、
    \[\forall p,q\in T, d_T(p,q)\leq d_X(p,q)+K\]
グロモフ積:
$x,y,z\in X$ に対して、グロモフ積を
$$(x\cdot y)_z:=\frac{1}{2}(d_X(x,z) + d_X(y,z)-d_X(x,y))$$
で定める。
注:Tree-like 性質よりグロモフ積は測地線[x,y]とz の距離とみなせることがわかる。

グロモフ積の性質:

  • $(x\cdot y)_{x_0} \geq\min\{(x\cdot z)_{x_0}, (y\cdot z)_{x_0}\}$
  • {$x_n$} がグロモフ列$\iff$ $(x_n\cdot x_m)_{x_0}\rightarrow\infty$ as $\min\{m,n\}\rightarrow\infty$.
  • {$x_n$}{$y_n$}がグロモフ同値$\iff$ $(x_n\cdot y_n)_{x_0}\rightarrow\infty$.
  • {グロモフ列}/グロモフ同値をグロモフ境界といい、$\partial_\delta X$ とかく。
  • グロモフ積はグロモフ境界に次のように拡張する。$x,y\in \partial_\delta X$に対し
    $$(x\cdot y)_{x_0}:= \sup\liminf_{m,n\rightarrow\infty}(x_m\cdot y_n)_{x_0}$$
    ここで$\sup$ は点列$\{x_n\}\rightarrow x$, $\{y_n\}\rightarrow y$ すべてについてとる。
Shadow:

$$S_{x_0}(x,R) := \{y\in X:(x\cdot y)_{x_0}\geq d_X(x,x_0) -R\} $$
  • Shadow の補空間もShadow i.e.
    $0\leq R\leq d_X(x,y)$ とする。この時$\exists C>0$ s.t. $X\setminus S_x(y,R)\subset S_y(x,\widetilde R)$.
    ここで$\widetilde R = d_X(x,y)-R + C$.






2017年8月26日土曜日

さまざま

トポロジーの研究集会に久しぶりに参加しました。
最近は力学系などの視点で、トポロジー関連の研究していて
トポロジー以外の集会が多かったのです。

学生の頃、メインに参加していたのが日本の、トポロジーの集会。
前々から思っていましたが、分野ごとに、また同じ分野でも国ごとに
集会の''空気が''違って面白いです。

不思議なことに、

柔らかい幾何といわれるトポロジーの集会の空気は柔らかめ
微分ができたりしっかりめの幾何の空気はすこししっかりめ。

どちらが良いとかではないですが、面白いです。

トポロジー、とくに日本のトポロジーの空気に久々にふれて
すこしだけ柔らかい気分です。

2017年8月19日土曜日

習慣

次はどんな数学をしようか。
それを考えるのに、最近はいつもより深く
自分を見直しています。

ほかの人に迷惑にならない範囲での
結構''変な''習慣やらこだわりがあります。

自宅にテレビもネットもなかったり
いまだにガラケーだったり
家がちょっとボロかったり
電気やエネルギーを極力使わなかったり

自分にとってはあたりまえすぎて、
普段は気にしていなかったのですが
今回は気にしてみることにしました。

すこし、やめてみたりしました。
中には、いまはあまり意味のないものもありましたが、
やっぱり大切だと思うものがたくさんありました。

多くは、ノイズを減らす、ためにやっていたということを
再認識しました。

例えば、電車の中吊り広告が目に入って思考がとまる。
うるさいなぁ、と思っていたのです。
テレビやネットも、面白いこともあれば、''うるさい''こともある。

静かなところで、自分だけの思考に浸かる。

ずっとそうしていたいわけではないですが、
そういう時間をきちんと持ちたいと思っていて、
''それ''を作り出すために、
ぼくはすこし変な習慣を持っていたのだとしりました。

2017年8月12日土曜日

ぎゅっと

お芝居、数学、スポーツ。
いろいろなものを見て、
「1秒にかけられた膨大な時間」
が感じられたとき、いいものを見たな
という気分になります。

その1秒のために費やされた時間が
どっと体に入ってきて
染みる

先日、2分半でトポロジーを紹介するという難題にトライしてきました。
1秒にどれだけ"詰め込めるか"
いろいろ試して、楽しかったです。
評判はなかなかでしたが、もっとうまくやれないか考えています。


数学に長い時間を費やしてきた人で
きっと僕と"あう"感覚の人の講演を聞くと
なぜかぼくは、
夏、森の中で遊んだ情景を思い浮かべます。

講演の中身が分からなくても
充実感だけ得たりします。

2017年8月5日土曜日

数学と囲碁

最近、隣の大学の先生と囲碁を定期的に打っています。
なんとなく、昭和な感じがして楽しいです。


いろいろ「昭和」な話も聞きました。

むかしは(むかしですよ!)、
昼休みによく教授が集まって囲碁を打っていたそうです。
つい熱くなってちょっぴり(ちょっぴりですよ!)
長めの昼休みになったりするのでだんだん消えてしまったそうです。

でも、話を聞くとそういう「自然と人が集まる場所」があったおかげで
いろいろな''雑務''がとてもスムースだったそう。

対局をみながら、あーそういえばあの件ですが・・・とか
あの先生に用事がある?たぶんあそこだよ!、とか

なるほど、と思うと同時に
当時を語る先生が楽しそうで、なんだか羨ましいなと思いました。

エルデシュ(世界で最も共著者が多い数学者だそう)は
プリンストン大学で囲碁ばかりやっていたそう。

そういえばメルボルン大学に留学した時は、
数学の談話室でベトナム人の友達と囲碁を打ちました。
(碁盤があったのです)

むかしも書きましたが、

可能性がたくさんありすぎて、正解はなかなか見えない囲碁。
どちらに進むかを決めるのに感覚がとても大事。

数学はさらに多くの可能性にあふれていて、
やっぱりどういう方向に進むか、その感覚が大事。

共通部分があることに気づいていた人がたくさんいたのでしょう。

ちなみに、「感覚」、どんなものかというと
囲碁のそれと、数学のそれが、にているなぁと
''なんとなく''感じる。そんな感じです。

2017年7月29日土曜日

ニューラルネットワーク

脳の回路を模倣したニューラルネットワークというのが流行っています。
その解説は他に譲りますが、学んでみると
自分が意識したり、無意識にやっていたことが
うまく説明されています。

スポーツをやっていた時、基礎練習を繰り返す作業は
頭の中に「回路を作る」
ことだと思っていました。
ニューラルネットワークの言葉だと、
「複雑な回路をひとまとめとみなす」
方が近いということがわかります。
複雑なものが「ひとつ」になったときが「わかった」ときで、
ひとつになったものだけが、とっさに出せるもの。

そしてその考え方はここに書いたことによく似ています。

囲碁をやって、ある程度の感覚が身につくと、
"碁盤の一点が光って"見えることがあります。
だいたいは、そこに打つのが正解。
意識しない回路が出来上がり、それが反応しているのかなと思ったり。

"感覚的"なさまざまに説明を与えることは大切です。

むかし読んだ論文で、今も目標にしている論文は
感覚的に良いと感じるアイデアを
見事に数学の言葉に直していました。

そうやって、きちんと記述できると、理解が深まって
きっといろいろ進むのです。

ことばにできない、を
ことばにしたいのです。

2017年7月22日土曜日

ものがたり

数学は言語だ。

よく耳にしますが、ぼくは物語を作るような感覚で数学を見ています。

言うなれば、物理やその他、現実に即した科学はノンフィクション、
一方で数学はフィクションです。

''文法''は決まっていますが、それさえ守れば何を描いても良い。

こんなに自由な学問はほかにないように思います。


でも、ひとむかし前にフィクション、''夢物語''として描かれた世界が
現実になったりしている。


わくわくする夢を描けば、いつか現実になったりする。
そうやって数学は世の中の役に立ったりするのかなと
思っています。

2017年7月15日土曜日

あいうえお

辞書にはたくさんの言葉が順番にならんでいます。
最初の一文字目を比べて、同じだったら二文字目、・・・
どこかで「先に出てくる」文字があれば、辞書でも先に出てきます。

"先に出てくる"数字は小さいです。
同じように先にでてくる言葉も``小さい''ことにする、

あい<あお<かお・・・

と不等号の記号で書くことができます。

同じことを、「数字のペア」で考えてみます。
$(0,1)<(0,2)<(0,100)<(1,0)$とさっきと同じように
最初の一つ目の座標($(a,b)$なら$a$)を比べて、同じだったら二つ目の数字を比べます。
辞書と同じように決まるので、これを辞書的順序とよんだりします。


この順序をみて、ぼくはとてもしみじみしたのです。

「目の前の壁」を乗り越えていけば、いつかはきっと到達できる。
とくに理由もなくそう思っていたのが"間違い"であると辞書的順序はいうのです。
$(0,0)$ の「目の前の壁」を越えると$(0,1)$。
一万回乗り越えて$(0,10000)$ となっても $(1,0)$ と
$(0,0)$からたった一つ数字を変えたものに絶対に"勝てない"のです。

あいうえお、なら大丈夫。
おわり、があるから、いつかは"繰り上がる"。
でも数字は無限個あって、おわりがないのです。
だから、"そのまま"では、
絶対にたどり着けない場所が、
生まれてしまうのです。

なんとなく、目の前のことに追われて
「頑張ってるつもり」になること。
本当はこのままではいけないと思っているのに、
"少し前に進む" からなんとなく続けていること。
それらは決して目標へ続く道へとはならない、
そんなことがあるのだと知りました。

二つの数字のペアを考えたから"上の"座標は一つでした。
でももしかしたら、10個、100個、もしかしたら無限個、座標があるかもしれません。

努力は正しい方向に向けないといけないのだと、辞書的順序に教わったのです。

新しい理論を学ぶと、身近なことが新しい目で見える、初めての経験でもありました。

あいうえお。

2017年7月8日土曜日

ミチハバ

藤井四段の連勝のニュースをみてミーハー心で対局の解説を見てみました。
囲碁と将棋は似ているようで、
対局終盤の''道幅''がけっこう違うようにみえましたというお話を。

将棋も囲碁も、先に王将をとる、陣地をとるという点で
レースに似た面を持つゲームです。

対局の際、幾つか岐路がみえることがよくあります。

近道だけれども、ミチハバが狭い道。
少し遠回りだけれども、ミチハバが広い道。

道を踏み外し、''落ちて''しまったらそれまでの苦労も台無し。
一気に追い抜かれます。
アマチュアの対局の多くは
最後に''落ちた''ほうの負けです。

囲碁は終盤に近づくにつれて、(ものすごい僅差の碁をのぞいて)
ミチハバはどんどん広くなっていきます。

将棋はミチハバがどんどん狭くなる。
というか、そもそも普段通っている
ミチハバが囲碁より一回り狭いようにみえました。

ぼくは将棋はあまり詳しくないですが、すくなくとも囲碁は
ミチハバの狭い道を華麗に渡ることも大切ですが、
「見逃しやすい」ミチハバが広くて近道でもある''よい''道が
たくさんあるゲームかなと思います。

狭い道を華麗に歩くのに大切なのはテストで良い点をとるのと同じような
しっかり確認して、ミスをしないという力です。

一方で、隠れた''よい''道を見つけるのに必要なのは
経験やセンスからくる感覚。

狭い道を歩くのが苦手なぼくは、どうにかして感覚を磨こうと努力しました。
そのためにやっていたことを書いたのがどっぷりとです。

数学をやっていても同じことを思うことが多々有ります。
華麗な計算を駆使して新しい理論を作ることにも憧れます。

でも、そういう計算その他が苦手でも、
隠れたミチハバの広い面白い道がみつかることがあるのです。

そんな隠れ道をみつける、見かけたらちゃんと気づく。
いつも気をつけています。

この道、素敵でミチハバ広くて面白いのに、
だーれも通ってないな。

そんな道を歩いていきたいのです。

2017年7月1日土曜日

数学のやり方

ぼくは最初の論文を書くのが遅い人でした。

簡単に言うと、工学から純粋数学へ移るという、
なかなかどうして頭のおかしいことをやったのが理由です。

でも、ぼくはかなり「準備をして」数学の世界へ飛び込みました。
大学院に入りたての段階で、
基礎知識は博士課程に進むつもりで研究してる友達と比べても
それほど劣るものではなかったかと思います。

でも、今となってみると「数学のやり方」をわかっていなかった。
とくに、大学4年間を数学科で過ごすと''自然''に身につく
感覚のようなものがどうやらあるようです。
準備がそれなりにできていて、セミナーなどを順調にこなしたぼくがいざ、
研究の段階に入ると、急に何もできなくなりました。

何かが足りない。

そう気がついたのは大学院の4年目(標準は5年)のはじめくらいでした。
共同研究者や周りの人にそれを''補って''もらいながら、
それが何か、わからないままに博士号をもらいました。

きっかけ一つで、論文なんていくらでも書けるようになる

拠り所にしていたアドバイス。

博士号を取った後、
ぼくはその何かを、きっかけを掴む必要がある。

そう思い、一人で研究をするように心かけていました。

苦労して、失敗して、少しだけその「何か」がつかめた感じがした。
それは、数学がひとりでに動きだしたときでした。

ぼくが間違えても、数学はそれを教えてくれて、
正しい方向まで示してくれる、そんな経験。

きっとまだまだいろいろあるのでしょうが、
少し前に進んだ気がしたのでした。

2017年6月24日土曜日

からだのこえ

ある意味で、研究生活はスポーツだと思っています。
試合開始の笛は産声、終了は、終わったとき。

その中で、体調を管理するのは大事なこと。
今日は自己流ですが、体調について気づいたことを。

体調不良、倦怠感、疲労感には大きく分けて要因が
内にある場合
外にある場合
のふた通りがあると思います。

内、は筋肉、内臓、または心の調子が実際に悪いとき
外、は季節の変わり目、軽いストレスなどで体が反応しているとき

難しいのは内か、外かで対処法が大きく異なる
もしくは、ほぼ正反対であろうこと。

内、の場合は休養が必要。
エネルギーを節約する方向。
外、の場合は逆に気合をいれて自分を「正しいリズム」に戻す。
エネルギーをガンガン使うのが有効かと思います。

問題は「間違える」とどちらの場合もかなり悪化するということ。

原因が外なのに、エネルギーを抑えて受け身になっていると
外的要因はどんどん体にダメージを与え続けて、
じきに内まで侵食してくる。

もっと悪いのは、原因が内のときに無理に頑張ること。
そうすると休養が必要なほど弱った体、心は壊れます。

見極めは難しく、日々自分の調子と向き合うことが大切だなと。

なんだか数日体調が悪くて、休んでも一向によくならず
なるほどこれは梅雨のせいか!
と気合を入れたら元気になりました。

からだのこえ、を正しく聞くのは難しいですね。

2017年6月17日土曜日

どっぷりと

数学の世界では依然として、師匠、弟子、という言葉遣いをします。
大学院でお世話になる先生を師匠、学生を弟子と呼ぶのです。

研究は冒険に似ています。

どの方向に進むのか。
どうやって困難を乗り越えるのか。

「センス」が問われるのです。
ぼくの師匠は事ある毎に
「筋が良い」「筋が悪い」
と数学を見ながら言いました。

難しいのは、それが"どうして”筋が良い/悪いのか、教えてもらえないのです。
今となって思うと、それは言葉にするのが難しいのです。

困ったぼくは一つの経験を頼りました。

囲碁も同様に「筋の良さ」が非常に大事です。
独学で囲碁を勉強した際に、効果があったものの一つが

同じ棋士の棋譜をひたすら並べる。

棋譜というのは戦いの記録。
大事な事は、一人の棋士を選び、その棋士の棋譜だけをひたすら並べること。
すると、見えてくるのです。
その棋士が何を信じて、何を頼りに次の一手を選んでいるのか。

ひとり、またひとり。
それを繰り返しました。

自分と感覚が合う棋士の棋譜を並べると、自然と"強く"なりました。
自分と感覚が合わない棋士の棋譜をならべると、不思議と"勝てなく"なりました。

そして、それでも。
そうやって得た、感覚はひとりひとり、
違うところもあれば、同じところもあります。

きっと多くのひとが共有している部分は自分も大切にするべきところ。
ひとそれぞれ異なる部分は"棋風"とよばれる。
自分がしっくりくるものを選べば良いのです。


ぼくは"同じこと"を数学でもやりました。
ひとを選んで、ひたすら同じ著者の論文を読みました。

もちろん他人にはなれません。
何人かを選んで、繰り返して、そのなかで得たものから
自分で"選ぶ"のが大事なんだろうと思います。

それがきっと自分だけの「数学の見方」、
羅針盤になるのです。


ようやく少しだけ"羅針盤"が見えてきたので大事に育てていきたいと思っています。

2017年6月10日土曜日

忘れた幾何

「幾何」とはきっちりかっちり決まった"かたち"です。
トポロジーは形の「幾何」、長さ、角度、面積などの量的な情報、を捨てて
 残ったものをしらべよう。
 そんな考え方でした (昔の記事、「1+1と2」もよければ)。

 そうやって、たくさんの情報を捨ててもなお、残ったなにかがあるならば
 それはきっと大切だろう。

 数学ではいくらでも高い次元の空間を考えることができます。
 でも、不思議なことに"低次元"とよばれる
 2次元、3次元の空間のトポロジーが「面白い」。
(「 次元の低い話」はトポロジーでは面白い話です)

その面白さのうち、ぼくが好きな理由が「幾何化」です。
トポロジーは幾何を忘れていた。
だけれども、低次元のトポロジーは自分に合った、
とてもきれいな「幾何」を決めるのです。

例えば球面(ボールの表面です)。
これは2次元の空間。
トポロジーではいくらでも"ぐにゃぐにゃ"変形して良いのですが、
球面が好きなのは、一番最初に思い浮かぶ「まるい」幾何。

他にいかようにでも幾何をいれることができますが
"ほおっておくと"まるくなるのが球面です。
空間のきらいな幾何を入れると、「空間がかわいそう」という先生もいます。

2次元の空間はみな、好きな幾何を持っている、
つまり「幾何化」できるということが古くから知られていました。

そして、「幾何化」はサーストンにより3次元でもできると予想され
ペレルマンによって証明されました。
ポアンカレ予想という100年以上未解決だった予想とともに。

3次元の空間も「好きな幾何」を持っているということが証明されたのです。
その中で、とても自然で、きれいな幾何になることが知られているのが、
3次元の双曲幾何、「またまたまがる」幾何です。

この幾何はなんと、トポロジーでただ一つに決まります。
トポロジーが幾何を決めるのです。
つまり、
「幾何を忘れて」形の本質にせまったトポロジーを、
「幾何を使って」研究できるのです。

一度忘れて、辿り着いた先に、そっときれいな形で、「幾何」がいるのです。
双曲幾何はとても強力で、見つけることができれば、空間の様々な性質がわかります。

では、どうやって見つけるのか?
「存在すること」の証明と、実際に見つけることには大きな差があります。

実は、それをやってくれるプログラムがあります。
 SnapPea という名前のそのプログラムは近似計算で双曲幾何を計算できます。
とても面白く、様々な研究者がそれを使ってきました。
SnapPea でたくさんの双曲幾何を"もちそうに"みえる面白そうな空間が見つかりました。

ただ、数学者というのは面倒くさい生き物でもあって、
「近似計算」では証明とはみなさないのです。

じゃあどうするか?
そう、ぼくの博士論文の結果を使うのです!(笑)

精度保証計算というものをつかって
SnapPea を、数学者も「証明している」と、
まぁ納得してもらえる形にしたのが、ぼくの博士論文です。

「SnapPea の弱点を君が補ってくれた」

SnapPea の開発者にあって、気分がのって長々書いてしまいました。
トポロジーと幾何は互いに補い合って、低次元の空間を豊かにしているのです。
たくさんの共同研究者の協力もあって、ちょっといいもの作れましたという話でした。

2017年6月3日土曜日

AI

ぼくは工学部に入り、その後大学院から数学をやるという
少し変わった道を通っています。

工学部に入った理由のひとつが
「自分より強い囲碁のプログラムをつくりたい」でした。
今思うと、情報科学科に入るべきだったのですが、
当時はあんまりよくわかっていなかったのです。

当時、ぼくが知っていた人工知能や機械学習と現在のそれはもう
同じものとは思えないほどにレベルが違います。

大学一年生のときに一番強かった囲碁のソフトは寝てても勝てました。
今、フリーで落ちている囲碁のソフトにぼくは負けます。
AlphaGo にプロ棋士が完敗し、大きなニュースになりました。

最後の砦、囲碁が負けていろいろな意見が聞こえてきます。

なんというか、ぼくは結構ワクワクしている派なのです。

囲碁では伝統的に"正しい"と信じられていることがたくさんありました。
でもそれは、必ずしも、いつも正しいとは限らないとAI が教えてくれました。

なんか自由だなと思ったのです。

「こうするべき」

それは、大抵は正しいかもしれない。
けど
盤上で人々が2000年以上も研究し信じていた「こうするべき」は
そうとも限らなかった。

きっと「こうするべき」は安全。
でも、そうとも限らない、なら
やりたいように、やってみてもいいんじゃないか。

そしたら、もしかしたら。

むかしの目標が終わってしまったのをみて、
いま、何をするべきかいろいろ考えているのでした。

2017年5月27日土曜日

おうさま

大学生として4年間を過ごす意味はなんですか?

学生のとき、研究者になってから、何度か出会った質問です。
大学というのは中学高校、または社会人と比べてとても自由な時間を過ごせる場所です。
授業を休んでも、単位を落としても、まぁ許されます。
人に迷惑をかければ何をやってもきっと大丈夫。

大学という場所はその"自由"をお金を出して買う場所です。
世間も自由である事を認めてくれるとても良い場所。
多少の失敗も、受け入れてもらえるでしょう。

でも、だから。

その自由を使って何をするか、見ている人がいます。

4年間、遊んでしまったら。
きっとあなたは管理されます。
「自由だったら遊びます」
そう、宣言してしまったのだから。

4年間の自由で、
「おもしろいもの」「おもしろくなるかもしれないもの」
なにかを感じ取れることをしていたら?
さらに2年、もう3年、続けてみたら。

「この人に自由を与えたら、おもしろいものがでてくる」

そう、思ってもらえたらきっと今度は自由を与えてくれる人がでてくるはず。

大学の話をしましたが、きっとどこにいても、何をやっていても同じ。
「自分」をみせるチャンスがあったら、そこ、です。



おもしろいものが、生み出せなくなったら、終わるかもしれない。

だけど、続けていければ、それはそれは。


この海で一番自由なやつ。

それが、おうさまらしいです。

2017年5月20日土曜日

ぐわんぐわん

GW を含めていろいろイベントのある2週間をすごしました。
友達の結婚式に行って、気合いの入る研究発表をやって、もう一度友達の結婚式に行きました。

思いっきりお祝いする気持ちにしてから
思いっきり気合いをいれて
もういちど
思いっきりお祝いする気持ち。

終わって少し、きもちが、ぐわんぐわん、しています。

研究をやるときは一所懸命、そこに留まるために、きもちを深く、沈めます。
お祝いするときは、思いっきりあげます。

あげて沈めてあげて。
ぐわんぐわん。

ふだん、研究をやったあと人に会う用事があるときは
少し時間をあけて、きもちを持ち上げてからでないと
上手に話せなかったりします。

大きく動かしたきもちが、いつもより少しだけ揺れています。

イベントは全部、楽しかったです。


ひとりでは動かせなかったきもちが落ち着いたとき
何が残るのか
楽しみです。

ぐわんぐわん。

2017年5月13日土曜日

なぜ

ε-δ 論法という、大学に入りたての学生を''苦しめる''、
理解が少しだけ大変な考え方があります。
これが理解できないのは、きっと理解したくないから、なのだろうなと思うのです。
ε-δ 論法に限りません。
学校でならう数学や他の科目もきっとおなじ。


そういっても、多くの人は
理解したい気持ちはある!
そういうかもしれません。

それは、なぜですか?

単位が欲しい。いい点を取りたい。いい大学に受かりたい。

少し、難しいかもしれないと思う理由を並べてみました。
ただし、次の「なぜ」に耐えられるなら、大丈夫です。

単位が欲しい。いい点を取りたい。いい大学に受かりたい。
それは、なぜですか?

そこで出てきた理由にたいして、また「なぜ」を聞いて、
なんどか繰り返して
それでも実のある答えが残ったなら、きっと大丈夫。
今日難しくても、明日きっとわかります。

勉強に限らず、何かをやろうとしたとき、
「なぜの深さ」はとても大事だと思っています。


普通なら聞き流してしまうようなことでも
好きな人が言ったなら、
気になるでしょう。

ε-δ 論法が気になって仕方なくなったら、
明日にはきっと理解できるのではないかとおもうのです。

2017年5月6日土曜日

おとどけ

きっと素敵な考えをもっているのに。
どうしてそんな言い方に。


むかし、お芝居をすこしやってみて、思ったことがあります。

本当に伝わらない。

表現しているつもりでも、
みている人にはほとんど伝わっていないのです。
こんなにやったら大袈裟だろう、
それですこし伝わるくらい。

研究発表や授業もおなじです。
精一杯の工夫をこらして、
すこし伝わるくらい。


きっと大事なことほど、
伝えるのが難しいということなんでしょう。

普段の会話でも、おなじかもしれません。
一生懸命丁寧に、伝えて少し伝わります。

でも、すべてを懇切丁寧に説明すればいいのか?


とくに研究発表においてですが、
ぼくは意識して、すこしだけ"わかりづらく"発表することがよくあります。


お芝居や、わかりやすい例なら、お笑い。
全部説明したら、肝心なところが"台無し"になるから。

スポーツや囲碁もそう。
言葉ではわからなくてもカラダに"すっ"と入ったときに
「伝わった」と思えるのです。

伝えるのはとても難しい。


大事なことは、ときに丁寧に、ときに大袈裟に、心をこめて、

おとどけを。

2017年4月29日土曜日

あついとこ

ろうそくの炎の一番熱いところは人の目に見えない。


橙に"輝いているように''みえる部分は、実は
不完全燃焼

酸素が足りていないのです。


人の情熱も似たところがあると思うのです。

やる気あります!なんでもやります!!


わるくはないですが、本当かなって思ったり。
本当に頑張っている人は、頑張っているようにみえないのではないかな。

呼吸をするように、心臓が脈打つように

がんばって、いきたいです。

2017年4月23日日曜日

なげてなげてなげる

すこしだけジャグリング、お手玉ができます。

ボールが3つも4つも舞うのをみて、すごいと思う人もいるでしょう。
でも、ボールひとつなら、だれでもできることを繰り返しているだけでもあるのです。

ボールをなげて、とる。

簡単と思うかもしれません。
だけれども、
ボールの軌道は毎回おなじか?
利き腕でない手でなげてみたら?
目をつむってもきちんととれるか?

やろうと思えば、いくらでも課題がみつかります。
そして、それらができるようになったとき、

「ボールをなげて、とる」ことが本当の意味でできるようになったと言えるのです。
そのときはじめて、ボールの数を増やして、次のワザができるようになるのです。


数学にはとても難しく、理解できそうにない理論がたくさんあります。

だけれども、よくよく見てみると、どれも小さなものの積み重ねです。

ひとつの定理の
その主張をじっくりじっくり眺めてみたり、
いろいろな例に適用してみたり、
すこしだけ間をおいて、自分の頭で証明してみたり、

そんなことをして、本当の意味で理解する。
すると、次の世界がすこしだっけくっきり見えてきます。

そうして、また次の定理を理解して、
くりかえすのです。

ジャグリングでは、ボールの数やワザにはどうしても制限があります。

でも、数学は

ボールをひとつなげることから始まって、
「ボール3つ4つなげる」できるようになると

新しいボールが現れて、
そのボールひとつには「ボール3つ4つなげる」
というワザが"ふくまれて''ていて、
そのボールをまた3つ4つ、なげて、

くりかえして
いつのまにか、とてもたくさんのワザをふくんだボールを3つも4つも5つも、もっと

自在になげられるようになるのです。


いくつもの定理をふくんだボールを、ふくんだボールを、ふくんだボールをなげて
新しい定理に出会うのです。

なげてなげてなげる。

2017年4月15日土曜日

さがしもの

世界がぜんぶ数式にみえるんですか?

たまに聞かれますが、少なくともぼくには見えません。
まず、「数式」というのは数学的にものごとを捉える、
たくさんある手法のひとつです。
では、世界がぜんぶ数学にみえるか?

そんなことはありません。

これは、お笑い芸人さんに
世界をぜんぶ笑いにかえられるか?

と問うのと似ていると思うのです。

間違っていたら申し訳ないですが、たぶん
お笑い芸人さんは「笑いにできる」ものを
毎日必死に探しているのです。

そしてみつけたものを、楽しく披露する。

数学をするのも、きっと同じです。
「数学にできるもの」を探して、
たくさんの失敗の中から
うまくいったものを披露するのです。

どちらかというと、できないことばかりです。
それでもウケたとき、うまくいった時、とても嬉しいです。

だから、がんばるのです。

2017年4月8日土曜日

できる

料理をよくします。
何かを作る過程を自分の手で体験するのが面白いという理由ともう一つ、
いろいろな場面で役に立つと思っている理由があります。

研究というのは基本的には失敗します。
毎日、たくさんの失敗をして、その上で得られた小さな成功を集めてきたものが成果です。

わかってはいても、失敗が続くと、うまくいくものも、うまくいかなくなるのです。

海外にいて、英語で伝えることに失敗し続けると、
本来伝えられたことも伝えられなくなりました。
日本人に出会って、すこし日本語を使って「伝わる」経験をすると、
英語もすこしは伝わるようになりました。

バスケで中長距離のシュートが入らなくなった時、その距離で練習し続けるより、確実に入る距離からすこしずつ距離を伸ばす方が早く「入る」ようになります。

囲碁や将棋では、試合前に「(自分にとって)簡単な詰碁、詰将棋をとく」というのが、非常に効果があることがしられています。


うまくいく経験を、からだにあたまに、植えつけるのです。
(いろいろな例の、底に流れる考え方を抜き出すのが抽象化でした)


丁寧に作れば、難しくない料理なら大抵はうまくいきます。
失敗し続けたあたまに、「できる」という体験をさせるのに、ぼくは料理をしています。
あんまりレシピに頼らずに、自分で考えて作ってみるのが「できた感」を得る、コツです。

2017年4月1日土曜日

そのままに

そのよくわからない自信はどこからくるのか?
たまに聞かれます。

なにかに挑戦するとき、自信はどうしたって必要だ。

二十歳くらいのころ、そう思ったぼくは、一つのことをはじめました。

口にしたことを、守る。
どんな小さなことでも、守る。
最低でも、できる限り守る努力をする。


大変です。サボってしまった時期もたくさんあります。
でも、続けるととても効きます。

ぼくは、ちゃんと守ってきた。成し遂げてきた。
それは積み重なって、自信になります。
「きっとなんとかなる」は「必ず、なんとかしてみせる」に。
不思議なことに、ぼくはあのときこう言った、それがうまくいく理由になったりするのです。


もちろん、いつでもうまくいくわけではありません。
それでも、できる限り守る努力をする。
失敗したら大いにヘコんで、反省して、次に生かす。


どうか、うそをつくことを癖にしないでほしい。
小さなうそは積み重なって、「守らない」ことに慣れていきます。
そうしていつのまにか心のどこかに溜まっていくのです。

また、うまくいかなかった。
そうして知らないうちに自信を失って、うまくいかない連鎖に支配されます。

まずは小さな一つから。


どうか、自分のことばを、そのままに。

2017年3月27日月曜日

あらたな

どうして数学を学ぶのか?
数学をやっている人はなんらかの理由を求められます。

論理的思考能力が鍛えられる。
いろいろな技術の基本で応用がたくさんある。
数学は世界を記述する言葉だ。

いろいろな答えがあります。

今日はぼくなりの答えをひとつ。

数学は「公理」とよばれるルールを定め、そこから広がる世界を探求する学問です。
どのように進むのか、「何を」みるのか。
ひとそれぞれ、
好きなもの嫌いなもの、
得意なもの苦手なものがあって、

似たようなひとがあつまって、文化ができます。
それが、数学のなかにたくさん存在する、分野です。

旅に出て新しい文化にふれ、ゆっくり考える時間をもつ。
きっと、たくさんのひとが大事だと認めてくれると思います。

数学も、おなじです。
この探検の良いところは、そのほとんどが徒歩であること。
そしてなにより、世界のどこで、いつの時代にみつけられたものであろうとも、
そっくりそのままおんなじものを見に行けるところです。

あふれる才能と情熱をもつひとがみつけた世界が、そのままのかたちでみれるのです。

もし、その世界が気に入れば、
さらに旅を続けて、

草っ原に出て

だれも見たことのない景色を探しにだっていけるのです。

2017年3月23日木曜日

足りないからこそ

体格や身体能力に恵まれなかったアスリートが、
それでもスポーツで生きていきたくて生み出した技。

顔立ちやスタイルに恵まれなかった役者が、
それでも芝居で生きていきたくて生み出した魅力。

読みの力や計算力に恵まれなかった棋士が、
それでも囲碁で生きていきたくて生み出した感覚。

計算力や記憶力に恵まれなかった学者が、
それでも研究で生きていきたくて生み出した理論。


足りないものがあるからこそ、まわりと違った目線でたどりついた場所。
そこにおもしろい、ステキなものがたくさんあると思うのです。

4つの例は分野は違うけれど、根底に流れる考え方は同じ。


共通している考え方を抜き出すことを抽象化と言ったりします。

2017年3月20日月曜日

1+1と2

「1+1」と「2」は持っている情報の量が違います。

1+1は、「なにかが1つとなにかが1つで2つある」という情報を持っています。


それは、1000/500 でも0.2×10でもないのです。


もし、りんごが1つ、パイナップルが1つあったとして、それらを「足したら」それは
「果物2つ」です。


計算をするということは、情報をすてるということ。
数学には他にもたくさん、情報をすてる、ワザがあります。


どうしても捨てられないものだけをのこして、すてるのです。

のこったものが、本当に大切な「本質」です。


長さ、角度、面積その他、「量」として測れるものを全て捨ててみえるものをみる。

それがトポロジーの考え方です。


2017年3月18日土曜日

草っ原を走ろう

ふかし芋
パン
ケーキ
煮物
チーズ
煮りんご
温泉たまご
ゆでたまご

他にもたくさんありますが、

これらは全部「炊飯器で簡単にできるもの」

です。

炊飯器というのは、
美味しいご飯を手軽に炊ける道具を作りたい、
とたくさんの人が情熱を注いで作られたものです。
結果として、炊飯器は日本のほとんどの家庭にある高性能圧力鍋となりました。
一生懸命がんばった結果、おもわぬ副産物がたくさんうまれる。


これは、数学を始めとする基礎研究が不思議ともおもえるような応用を得るのとにていると思うのです。
いろんな理論に様々な応用がみつかっています。
ひとが情熱を注いだものには思わぬ力があるものです。


そして、「つかいかた」がまだ見つかっていない数学がきっとたくさんあるのです。


一所懸命、ひとつのことに打ち込むと、世界がちがって見えてきます。
ぼくも多少なり、数学をやっていて、見えてきたものがたくさんあります。
これから、新しく得たその目で「世の中」をもっともっとみていくつもりです。


もし、次に何をやるか、どういった方向に迷っている人がいたらぜひ、自分が大好きなこと、を選んでほしい。

役に立つこと、生きていけそうなこと。


それらはもう、誰かが先に役に立てていて、みんながそこで生きていこうと群がる場所です。


人込みでは行きたい方向に進めません。



自分が好きなことに全力で挑んで、
そこで得た「目」で世界をみればきっとできることがたくさんあるはず。


草っ原を走ろう。

またまたまがる

「またまたまがる」という名前は、ぼくの専門の一つである双曲幾何の「双曲」からとっています。

リーマン幾何と呼ばれる幾何の一つです。


そこでは、「直線」、最短距離を実現する線、は「曲がって」見えます。
でも、直線本人は「まっすぐ」進んでいるのです。
実際に曲がっているのは「空間」です。

いろいろな分野を渡り歩いているぼくは、「曲がって」いるように見えるでしょう。
でも、本当に曲がっているのはぼくなのか、それとも。


三十路をすぎてどんどん失われていく青臭さを、精一杯呼び起こして、
むずがゆくなるような、それでも残しておきたい考えを書いていきます。