2018年12月29日土曜日

作り手

年末ですね。
少し前にリベラルアーツ教育うんたらで
映画監督さんや映画評論家の方を呼び
映画の色々なシーンをみながら
色々な話を聞くイベントがありました。
その時、印象に残った言葉メモに


(i) 共同体は異物を入れることで初めて描ける。
(ii) 若い頃たくさんの映画をみると
あたかも自分が巨匠になったかのような錯覚をし
他の監督を軽視しがち。
(iii) いま、自分にとって昔の偉人であった人が
乗り越えないといけない現実の壁だった人たち。
そのプレッシャーたるや。

とありました。
(ii)と(iii)はとてもよくわかると思いました。
特に(ii) は正直今でも自分はその嫌いがあります。
ぼくよりずっとすごい人の数学でも
「たいしたことないなぁ」と思ってしまったり
そうして自分のこれまでの数学を思い返して
ショックをうけたり。

(iii)  Thurston や Gromov といった人たちと
同世代だった、たとえば日本の数学者は
どんなプレッシャーと戦ったのだろう。

(i) は映画なら、ふむ、なるほどと思う。
数学だと?
境界やカスプがあると多様体を"見る"手がかりができて
色々研究がしやすい、とそんな感じかな?

今日は、数学者や用語をあまり気にせずに書いてしまいました。


でも、一番印象に残っていることは
(i)(ii)(iii)はすべて監督さんの言葉であるということ。
批評家の人が、何をいってもぼくには響かなかった。

作り手である、ことはきっと
とても大事であると思ったのでした。

2018年12月22日土曜日

技術

1年生の数学では
"あたりまえ"
に見えることを、丁寧に丁寧に議論する。

そんなに丁寧にやらなくても
あたりまえ、でいいではないか!
気持ちはよくわかる。

あたりまえ、と感じられるのは
実は大事な才能だと思う。
正しさを感覚でつかんでいる。

ただ、とんでもない天才でない限り
あたりまえ、は通用しなくなる。

だんだん状況は繊細になり
感覚だけでは、正しさを捉えられなくなる。

だから、「技術」を身に着ける。

ボールを「なんとなく前の方に蹴る」のだったら
どんな蹴り方をしても、うまくいく。
でも、20M先にある空き缶に当てようとしたら
きちんとした"蹴り方"を知っている必要がある。

正しい蹴り方で、ボールを前の方に蹴る訓練をしている
どう蹴ったって前に飛ぶじゃんか。
気持ちはわかる。ただ、正しく蹴るのは結構難しい。

天才ならね。感覚的に蹴っても
空き缶に命中させられるかもしれない。
でも、ほとんどは"そうじゃない"から。

「技術」というのは天才の"才"を
凡人にも使えるように分析し説明したものだと思っている。
技術を身につければ、天才にしかできなかったようなことも
それなりに、できるようになる。

大学というのは、そういう技術を
身に着ける場所じゃないかと思う。

勉強しながら
「どうしてこんな事を思いつくんだろう」
そういえば、大学生のころ
時折思っていた。

ほとんどの人は天才ではないけれど
技術を身につけ、色々なことを学ぶうちに
たぶん気づくのではないかと思う。
「でも、何もないわけでも、ない」
きっと見つかるその何かに
これまで身につけてきた、天才から学んだ、
技術を全部ぶち込んでみたら
ちょっとは新しいこと、できる、
かもしれない。

「99%の努力と1%の才能」
って、こんなかな、と思ったのでした。



2018年12月15日土曜日

まっすぐ

世の中のもの
だいたいは曲がっている。

まっすぐというのは
なかなか特別なもので
そういったものを調べましょう
というのが線形代数。

曲がったものは、
1つ2つ、点の値がわかっても
全体像は全く見えない。

けど、まっすぐだと。
2点が決まれば
それらを結ぶまっすぐな線は
ただ一つに決まる。

こんな奇跡が起きているのが
まっすぐな世界、線形代数。

そんな奇跡みたいな場所
実際にあるのかい?

そう思うのも無理ないけれど
曲がったものから
まっすぐなものを取り出すのが
微分。

微分して得られた
まっすぐな世界で
調べた情報を
集めて、
元の曲がったものの情報にするのが
積分。

まっすぐな世界は意外と
色々な所に広がっている。


そういえば、こっちに来た当初
とある先生と
数学で世界が広がるためには、奇跡が必要
とそんな話をした。

見渡すと、数学では
いろいろな世界が広がっている。

良いことだ。

2018年12月8日土曜日

おまけ

なんとなく、数学をおまけにしたい
と思っている。

ないがしろにしたいわけではない。
プロ野球チップス、みたいな感じ。

チップスなんだけど、
でも"おまけ"のカードが
みんなほしい。

おまけに夢中になれる。
おまけだからこそ夢中になれる?


と、そこまで思って
じゃあ"メイン"はなんだろう、と思う。

ポテトチップスってすごい。
存在感はカードに負けているかもしれないけれど
確かに、いるし、
しっくりくる。

数学は何のおまけにしたらいいのだろう。
いいメインがわからないので
ほっとくことにしました。

とりあえず、
数学をおまけにしたい。

2018年12月1日土曜日

出先

最後に"出張"をしてからどれくらいたったのだろうか。
あまり間は空いていないのかもしれないけれど
あまりに、久しぶり、と感じている。

色々な場所に行けて良いですね!

そんな言葉をかけてもらえることも多いが
あまりに飛び回ると
生活をしている感覚が薄れる。

自分で食事を作ることは難しい。
宿は清掃が入る。

小さいこと、かもしれないが
何かが足りないとも感じる。

豆苗を育てて、食べるといった
小さいこと、少しずつなことが
好き。

そういったこともできなくなる。


他の事情も相まって
少しの間、出張をしないでいた。

とても良かった。


そうして
久々に知らない土地に来て
これはこれで
大切なことだとも感じている。


とても、我儘であるなと
そんなことを思っている。

2018年11月24日土曜日

演習

微分積分学の演習を担当した。
元工学部、数学の中でも遊び人
(分野にとらわれず、遊ぶ)のプライド?で
"意味のない問題を出さない"ことを頑張りました。

エントロピーであったり
人工知能で使われる色々な関数であったり。
知っていることが大体ですが、
中には「これ、一体どう使うんだろう?」
と色々調べたものもありました。

その中で一番よくわからなかったのが
双曲線関数
$\cosh$ とか$\sinh$ とかです。
ぼくは双曲幾何学を研究してるから
使うけれども、それはかなり特別な使い方。

調べてみると
これは、懸垂線の長さになるそうで
$\displaystyle\int_{-5}^5 5\cosh(x/5)$
などとすると、あるたわみ具合の懸垂線、
例えば電柱間の電線の
長さが求められる、とのこと。

ふーん。

こうやって色々調べながら授業をしてみると
一年生の微分積分学は
これから色々な理系の分野に進んでいく
色々な人の基礎に確かになっていくのが
とてもよくわかって、とても楽しかった。

もちろんぼくも大学1年生をやったのですが
こうやってもう一度みてみると
うむ、世界は広がっているなと思ったのでした。



2018年11月17日土曜日

校長先生のお話

「校長先生のお話」
大抵はつまらないものの代名詞。

中学、高校の頃
ぼくは校長先生のお話が楽しみだった。


青春という文字に、なんと横棒の多いことか。
諸君、この文字は幾多の苦難、挫折を乗り越えて進む
まさに青春そのものである。


男子校の良いところは、学内に男しかいないところであり
男子校の悪いところは、学内に男しかいないところである。


楽しい練習はない、厳しい練習を楽しめ。
ある部活動の合言葉に、私はひそかに膝を打った。



記憶を辿っているのできっと色々違うけれど
今でも覚えているのだから、すごいことだ。

ものすごい量の本を読む方だったとのこと。
本当は、作家になりたかったけれど
周りの期待と、母校への愛のため
校長先生を引き受けた、らしい。

彼のおかげか、国語の先生に面白い人がたくさんいた。
ぼくは、数学者である。
30歳を超えるまで、文章を読むのが
とても、とても苦手だった。
ここ最近、なぜか
むかし国語の授業の課題で
買わされた小説を読み直していた。
かなり古い言葉で書かれているものも多い。
当時、文章を読むのが苦手で仕方なかったぼくは
読むのが辛くて辛くて、辛かった。

いま、ぼくはそんな小説を、原文で読める。
面白い、と思える。

干支ひとまわり以上して、
漸くぼくに面白さをくれた、課題図書。

教育とは、いったいなんだろう。
少しずつ存在感を増す冬の香りを感じながら
不断より少し、静かに考える。

先日、校長先生が亡くなったそうです。
ご冥福をお祈りします。

2018年11月10日土曜日

まなぶ

5年以上前に書いたもの。
書き残すとは大切ですね。

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小学校から英語を学ぶ事について
最近いろいろ議論があるようで。
「日本語力も下がっているのに英語なんて!」
そんな意見が大半。

英語を勉強したら、
日本語ができなくなる
って本当だろうか。
僕は英語を勉強して
実際使ってみて、はじめて
「日本語でしか表現できない事」
に興味を持ったし
「自分が日本語を上手く話せていない」
という事に気づいた。
だから、もっと日本語について
知りたいと思うようになった。

「学ぶ」というのは、一つを入れたら、
他が追い出されるようなものではなくて
新しい何かを見たら
いままでの知識とまざりあって
さらにいろんな興味を
生み出すようなものじゃないのかな。

だから、僕が一番大切だと思うのは
こういう「わくわくの連鎖」みたいなものを、伝える事。
わくわくしちゃえば
人はいくらでも学ぶものだと思うのです。

2018年11月4日日曜日

テイラーの定理

テイラー展開。
様々な関数を、"ずっと続く"多項式に展開する。
これがとても便利。
そして、数学的にも大事。

コンピュータの上で sin関数を実装しようと思ったら?
ぼくらはテイラー展開を知っているので
欲しい精度でsin 関数を計算することができる。

(実を言うとコンピュータは
足し算をしたり、かけ算をするだけでも
少しずつ精度を失うのでテイラー展開だけだと足りない。
そこのところを詳しく知りたい人は
ぼくも著者に、一応、入っているこんな本もあります笑)

さてさて。
$\displaystyle\lim_{n\rightarrow\infty}\frac{P_N(x)}{e^x} = 0$
を示してくださいという
問題を出した($P_N(x)$ は$N$次多項式)。
指数関数の収束の"力強さ"を感じて欲しかった。
テイラー展開はなんで指数関数が"強い"のかを教えてくれる。

いろいろな問題に取り掛かる際
解に指数的に収束するような"解法"を
持っていると、多項式オーダーの誤差に
"まけない"。

実を言うと、ぼくの専門としている
双曲幾何は色々なものが指数速度で収束するので
多少の誤差をもろともしない議論ができて
結果として、世界が豊かになっている、
・・・たぶん。


少々ぼくの趣味に走ってしまいましたが
他にもいろいろ便利な
テイラー展開、どうぞよろしく。


2018年10月27日土曜日

きほん

微分積分学の基本定理:
$\int_a^b f'(x) = f(b)-f(a)$

細かい条件は本などをみてください。

おそらく全ての理工系の学科で
1年生の時に、線形代数と微分積分学を習う。
これらが本当に色々なところで出てくるから。

この二つを合わせて使うと良いことがあるという事を
微分積分学の基本定理は教えてくれる。

微分とは何か?
色々な説明をされるかと思う。
局所的な変化量であり
それは、「接線の傾き」という
言葉でも表現される。

接線は、まっすぐである。
線形である。

次元をあげると、微分は
「局所的な変化量を表す線形空間」を
取り出す操作になる。

そうして、ぼくらは線形代数を使える。
そうやって、線形代数を使って得られた情報を
積分する。

すると、元の関数の、欲しい情報を
上手に取り出せたりする。

線形空間はまっすぐで、色々扱いやすい。
その理論を、「曲がった場所」で
使えるようにする操作が微分。
そうやって、微分で得られたまっすぐな場所で
線形代数で取り出した情報を
集めて、元の関数の情報に復元する操作が
積分。

曲がった関数も扱えるようなれると
見える世界もグッと広がるのです。

2018年10月20日土曜日

つながり

連続であるということ、
つながっているということ
をきちんと理解するのに
$\epsilon$-$\delta$ 論法なるものを使います。

一本の紐があります。
紐の「はし」と「はし」は
つながっているでしょうか?

そりゃ、つながってるでしょ!
とても正しくて、とても良いです。

実際、"つながっている"と考えることで
多くの物理現象が説明できます。

でも、それをちょっと疑ってみるのです。

ひもを少し拡大してみると、
大抵は、いくつかの細いひもを
束ねてできています。

だから、紐の端の一点と
もう一方の端の一点が
違う細い紐に乗っていたら
"つながって"、いないのです。

一本の紐を取ってくれば
"つながっている"のか?

紐を、拡大して、拡大して、
うんと、拡大して、拡大すると
分子のあつまりになります。

分子同士はばらばらです。
分子間力で互いに引っ張りあって
"くっついて"いるのです。

でも、隙間も空いています。

だから、たぶん紐の「はし」と「はし」は
つながって、いないのです。

$\forall \epsilon>0$

そういったとき、つまりは
「どれだけ拡大しても」という意味です。
どれだけ拡大して
どれだけ小さいスケールでものを見ても
成り立っている何かを説明しようとしているよ

そんな意味だと、思います。

2018年10月13日土曜日

数列

しばらくは、授業の最初にお話ししようと
思っていることをまとめていきます。

個人的な感覚を、言いたいように
お話しする気でいますが
なにか、気に入らないことがありましたら、
こっそり教えてくださると嬉しいです。

さてさて。
数列。

$\displaystyle 1,\frac{1}{2},\frac{1}{3},\frac{1}{4},\dots$
が$0$ に"収束"しますよ。
という話。

例えば、ボールを落としてみる。
そうすると、その「高さ」は収束する数列になる。

ちょっと注目して欲しいのは、
ボールの高さが「収束する」と
ボールそれ以上動かない、ということ。
収束先は、安定している。

たとえば、飛行機を飛ばすとき
いろいろな要因で飛行機は不安定になる。
ふらついた飛行機を、安定させるには
軌道を"収束"させればよい。

部屋の中でライターをつける。
一部だけ、熱くなる。
自然は素晴らしく、
部屋を"ほおって"おくと
温度のムラはなくなり、
温度はそれ以上動かなくなる。
つまり、安定する。
実はここでも、"何か"が収束している。

収束先は、安定している。
安定しているというのは
大抵とても良いことで
いろいろなものを安定させることが
とても大事。

つまり、いろいろなものを収束させると
結構良いことがある。

いつか、なにかを収束させたくなる
そんなときが、きっとくる。きっとね。

そんなとき、"なにか"の収束の理論は
(ほとんどの場合)数列の収束に
基づいて作られている。

だからまず、
数列の収束について
学んでみようということです。

2018年10月6日土曜日

$\forall\exists$と$\exists\forall$

最初に論理記号というものを理解してもらいます。
そうしないと"お話にならない"のです。
伝えたいことが伝えられません。

$\forall$ というのは対象とする集合の「すべての要素」で
という意味
$\exists$というのは対象とする集合のなかに「ひとつの要素」があって
という意味。

そしてこれは順番が大事。
具体例を見てみましょう。
一つ目の集合を
$A = \displaystyle \{さんま、ハンバーグ、焼肉、サラダ、冷奴、冷やしトマト、蒸し野菜\}$といった料理の集合、
もう一つ
$B = \displaystyle \{醤油、塩、ソース、焼肉のたれ、マヨネーズ、ポン酢\}$と調味料の集合とする。

このとき

(i) $\forall a\in A, \exists b\in B,$ $a$ に $b$ をかけて食べるのが好き。
(ii) $\exists b\in B, \forall a\in A,$ $a$ に $b$ をかけて食べるのが好き。

は、すごく異なる主張です。
(i)はとても健全。
何かしらの料理 $a$ があった際に調味料$b$ を適切に選んで、
合うものをかけて食事を楽しんでいる。
(ii) は、個性満載。
先に、調味料$b$ を一つ選び
どんな料理が出たとしても
 $b$ をかけて食べる。
マヨラーさん(伝わるのかな?)などがこちらです。

こんな風に論理記号は順序が大事です。
気をつけてくださいな。

ちなみに、ぼくは大学生の頃
(ii) で選ぶ調味料は「焼肉のたれ」でした。

2018年9月29日土曜日

イシソツウ

後期から演習を担当します。
シラバスでは
「コミュニケーション能力」は鍛えられない
という設定になっています。

でも、本当のことを言うと
高校や大学で``習う''数学は
頭の中に「もやっと」あるアイデアを
人に伝える道具
としての側面が強いと思ってます。

$\displaystyle 1, \frac{1}{2}, \frac{1}{4}, \frac{1}{8},\dots$

これはきっと 0 に近づく。

うんうん、そうだよね。
簡単な例では、きっとみんな納得。

でも、生きているといろいろあって
みんながうまく納得できない数列がでてくる(たぶん)。

そんなとき、自分がもやっと、考えていることを
正しいと信じていることを
きちんと伝えたいと思って生まれたのが
$\epsilon$-$\delta$論法。

だと、思ってます。

言葉になれば、
そこから物語が生まれる。

たぶんね。

これは
コミュニケーション能力だと
思うのです。

2018年9月22日土曜日

たんたん

週に一度
といっても毎週決まった時間に
書いているわけでなく
書きたいときに書いて
ためて
ならすと、週に一度がちょうどよい。

といっても、いろいろ忙しく
書くのが大変なときもある
それでも週に一度はなにかを
載せる。
そう思って、多少無理にでも書くと
あぁ、こういうことを
大事にしたいんだなと
いろいろ見えてくる。

面白い。

2018年9月15日土曜日

また

一年と半年、過ごしたまち、仙台。
どうやら、ぼくは引越すらしい。

まったく実感がわかないのだけれど。

一応、助教という立場で
きっといろいろ、与える、ことも
期待されれていたのだろうけど
貢献できた感じは、
正直あまりない。
すみません。すみません。

得るものばかりだった。
新しいプロジェクトが走る研究所で
たくさんの、普通に数学をしていては
あえないような人々にふれた。
いつも、周りにいてくれた人たちにも
お世話になってばかりでした。
本当にありがとうございます。

そういえば、ずいぶん長いこと、
数学ばかりをやってきた。
数学をやって、いない、期間も長いぼく。
実は、触れてきたいろいろには
久しぶり
と、感じるものもたくさんあった。

ぼくは、ぼくの好きなものを、
もう一度、知った。

仙台での経験はきっと
この先、生きていく。
生かしていきます。

ひとまずは、お別れ。
らしい。
実感はわかない。

また。

2018年9月8日土曜日

現実逃避

今週はやるべきことがたくさんでした。

現実逃避、ってなんで
こんなに捗るのだろう。
今後、半年は楽しめそうな
研究のテーマを見つけた。

いや、片付けをしないと本当に
まずいのだけど。

とりあえず、関連する論文を探したり
イントロ読んだり
現実逃避。

捗る。捗らない。

いや、本当にまずい。まずい。


楽しい。

2018年9月1日土曜日

運動

先日の、サイエンスカフェで
お手伝いをしてくれるバイトさん声をかけるとき
運動は得意ですか?
と聞いてまわっていました。
できなくても大丈夫だったのですが。

サイエンスカフェでは運動で必要な
「見た動きを、想像し、自分の体で再現する」
ことで数学を理解してもらう
ということをやってもらったつもりです。

そういえばずっと、ぼくは数学をやるのに
''運動神経''のようなものを使っていると思っています。
ボールを投げたらどんな軌道を描くか?

数式を解けば予測できるでしょう。
でも、そんなことをしなくたって、
ボールがどう進むかは''想像''できる。
計算より先に、軌道は見える。

自分が数学をやるときは
こんな感じのことばかり。
先に動きを想像してから
数学で補強する。

と、そんなことを考えて
ふと、ぼくは
数学が美しい
という感覚が分からない
ということを思い出した。

数学って美しいですよね!
と色々な人にいわれますが、
すみません、分かりません。

きっと、ぼくが''運動神経''を使って見ているものを
美的感覚で見ている人が多いのかなと思った。
音楽や美術から、その先を想像するように
きっといろいろ見ているのだろう。
それならきっと、美しいんだろうな。

ぼくの感覚だと、それらは
かっこいい。

実はとっても難しいことを、
上手な人がやると、とても簡単そうに見える。
でも、実際やってみるととても難しい。
そんなことを経験した時の
すげーっとなる、そんな感覚。

みんながみんな、「美しい」じゃなくても
いいよね。

2018年8月25日土曜日

ふ自由

自由な人にあった。
いいね。自由ってこんなんだよね。

数学はなによりも自由であるはず。
あんまり自由がすぎると
不自由を感じたりする。

めんどうなこっちゃ。


夏が、終わる。

2018年8月18日土曜日

移り変わり

季節や天気を、その移り変わりを、
感じ取って生きたいと思っている。

それでも、ちょっと忙しくなると
普通の人よりはきっと随分余裕があるくせに
忘れてしまう。

少し早めに秋の空気に。
こんな日が、気持ちが良いと
きちんと感じられるようでありたい。

数学から
季節を感じられるようになりたいと
ずっと思っているけれど
それはずいぶん大変そうだ。

まずは、そこにある季節を
きちんと楽しむところから
やってみます。

2018年8月11日土曜日

やりたい放題

やりたい放題やっていきたい。
中学生の終わり、高校生のころから、
ぼくはどんどん自分に正直になってきている。
でも、ぼくはとても"いい子"だった(はず)。
ぼくがやりたいようにやっても
とくに先生の望む形から外れることはなかったので
とくに問題なくすごしていた。

高校生の終わりの頃、
ぼくの自由と学校や周りが思う"いい子''が
分かれた。
その時、先生や周りの人は
「裏切られた」という顔をしていたのを覚えている。
ぼくはぼくで、その反応に驚いていた。
いつも通り自分に従っただけだったから。

どうしてこんなことを書いているのかというと
自由ってこういうことだよな
とふと思ったから。

ルールを破る
自分に貼られたレッテルを破る
これをやると"自由"と言われるけれど
これをやることが"自由"ではない。

いつもルールを破る人は
実はルールにとても縛られている
とよく思っている。

本当の意味で、いつも
自分に従っている
そんなひとがきっと自由なんだよな。

2018年8月4日土曜日

ひとつ、ひとつ


又吉さんの卒業式でのメッセージをみた。
https://www.youtube.com/watch?v=rghxBpAASr8

よかった。

コメントに「排水溝を見つめてるだけの時間」という表現で
絶望感を表すのはさすが!
というのがあった。

考えた。
排水溝を見つめてるだけの時間、って
たぶんぼくなら絶望感ないな、と。

絶望という表現は強すぎてあまり好きではない。
使わないようにしてきた。

ただ、絶望というは、
どこかに、まぁ前か後ろに
希望とか、期待とかがないと
たぶん生まれない。

意味のないことをただぼーっとやる時間は
”なーんも無い”よね。

絶望してたら、踏ん張るのは結構簡単。
表裏一体となって、希望があるから。

なーんも無いとき
頑張るのは大変。
なーんも無いからね。

うん、いい感じに
なーんも無い
日記になってきた。

なんで又吉さんのスピーチを思い出したかというと
今日が誕生日だから。

毎週土曜に日記を!
そう決意して1年半ほど。
2度目で誕生日を土曜に引いてしまいました。

数学をしているというと
しばしば聞かれるのが
「やっぱり素数に興奮するの?」
という質問。

すみません、しません。
けど、「ぼくの誕生日、めっちゃ水曜日に来るな」
とかならないのは、7が素数なおかげ。
素敵かもしれない。

うーむ。
なーんも無いが
結構楽しい時はどうすればいいのだろう。

ま、なーんもしないんだけどね。

鼓動のように
”なーんもしてない”
そんな意識で
何かをしたいのです。
難しいけどね。

2018年7月28日土曜日

だけれども

サイエンスカフェのアンケートを
まとめて送ってもらいました。

そのうちの一つ

Q. 講演内容は理解できましたか?

理解できた :52
やや理解できなかった:26
理解できなかった : 4

最後の「理解できなかった」人たちの
コメントがとても良い
(表現は変えています)

わからなかったけど、
面白かった。

わからなかったけど、
算数をもっと楽しくやりたくなった。

わからなかったけど、
わかるようになりたいと、思った。


ぼくは勝手にそうそう!これこれ!
と思っている。

ぼくはわかりやすく、わかりやすく
という風潮に賛成しない。

難しい、わからないことを
わかりたい、わかってやると
そう思えるようになってほしい。

感覚としては

転ばない方法ではなく
人は転んでも何度でも
立ち上がることができることを
教えるべきではないのか!!

というどこぞで聞くような考えが近い。

わかりたいと、思わせることが
教育じゃないかなと
勝手に思っている。

もっというと、今回「わからない」といった人は
自分に嘘をついていない。

数学で、勉強で、一番怖いのは
「わかったふり」

その意味でも、
今回「わからなかった」人たち
とてもいい。

ちなみに総評は
とても満足:56
満足:19
まあまあ:9
不満:1

だったそうです。

2018年7月21日土曜日

エッシャー展

エッシャー展に行って来た。
友人の「スターは呼び捨て」という考え方が好きなので
エッシャー、呼び捨てにします。

展示はカテゴリーに分けられていて
テーマ別に作品が並んでいた。
ぼくは、なんとなく"いつ"の作品なのか
気になって年代に注意して見ていた。
たまに、とても素朴な作品があって
それらは10代のころに作られたものだった。

若い頃は人物や、風景
徐々にキリスト教など宗教に関する作品が増えて行った。
戦争の後に、人を描くことをやめたという。

年齢を重ねるにつれ
作品から見て取れる思考の量が増えていく。
悩みや怒り、絶望に近い感覚
この辺を表現する日本語の力を
ぼくが持ち合わせていないのが歯痒いけれど
深く、ものを考えた人からしばしば感じる
悲しみ、がそこにはあった。

そうして、エッシャーは50歳くらいから
数学から発想を得たであろう作品がでてくる。

この思考の流れは、なんだかとても共感できた。
ぼくは演劇が好きでよく見に行くけれど
演劇、或いはもっと広く、芸術から
得体の知れない不安を感じることがある。

とても共感しているのだけれど
そこにある感覚が
"つかみどころがない"。
ぼくから見ると心もとない場所に
作っている人たちは
その瞬間の全身全霊を置いて来ている。
どうして、そんなことが
と怖くなる。

そういったものを見た後に
数学をすると、安心する。
"頼り甲斐"がある。
数学は、とても自由だけれど
一方で論理という強い制約を受けている。
それが、頼り甲斐の所以かと思っていたけれど
もしかしたらもっと深い理由があるのかとも
最近おもっている。

エッシャーのタイリングの絵をいくつか知っていて
それを目的に見に行ったけれど、
作品の年代をみながらエッシャーの思考を
自分なりに追いかけたら、
自分と似ていると、
まぁぼくが勝手に想像しただけですが
思えるところがあって
楽しかった。
いつか、年代順に並んでいる展示を
やってくれるといいな。

実を言うと双曲平面のタイリングの絵を
期待して行ったのだけれど
ぼくが見逃したのでなければ
展示はなかった。残念。
ポストカードがあったので
それだけいただいて来ました。

2018年7月14日土曜日

サイエンスカフェ終わりました

東北大学サイエンスカフェで
「数学小噺~日常に数学を~」と
題して講演しました。

100席用意していたものの
予想を上回る数の方々にご来場頂き
増席したものの130席ほどで
限界を迎えてしまいました。
席をご用意できなかった方には
大変申し訳ありません。
それでも、1時間45分
最後まで立ち見で聴いてくださった方も結構いて
大変ありがたいです。

講演後は
こんなに瞳は輝くのか!と思うぐらい
目をキラキラさせた女の子が
紙一面をびっしり埋めるほどのメモをもとに
質問してくれたり
女子高生に握手してもらったりしました。
(いや、握手してくださいって言われたんですが)
5ボールカスケードができる
小学生くらいの男の子もきていて
うん、きっと彼はぼくよりジャグリング上手。
数学にかこつければ
ぼくぐらいのレベルで拍手もらえるんですよ!

一方で不満そうな顔をしながら
質問して来た男の子もいた。
それでいい。
ぼくの話はきっと鼻に付くとこあるし
実をいうと、少しムカついて欲しいとも思っている。
それは、きっと"いい"ムカつきだし
そんな風に溜まった"もやもや"が
中学生高校生のぼくが自分で歩き出すきっかけになった。

どんな話をしたか、気になる方は
8月には仙台のケーブルテレビで放送、
9月には講演の様子がYoutube にアップされるそうなので
そちらをぜひ、楽しみにお待ちください。

いろいろ楽しい経験でした!

2018年7月7日土曜日

マサイ族

来週のサイエンスカフェでお配りする自己紹介文です
========================================

マサイです。
アフリカにマサイ族という民族がいます。
そこでは
「ジャンプ力が高い」と偉くなれると聞いて
小学生中学生の頃はずっとジャンプしてました。
ジャンプに疲れた後は
ジャグリングを始めて
ぼくの代わりにボールに高く舞ってもらいました。
高いところにいったり、ボールをたくさん投げたりすると
いつもの景色が違って見えます。
ぼくはスポーツや囲碁も好きです。
本当に集中力が高まって
試合のある瞬間にごくたまに見える“景色”が好きです。

「真の発見の旅とは
新しい景色を探すことではない
新しい目で見ることなのだ」

フランスの作家、マルセル・プルーストさんの言葉だそうです。
ぼくにとって「数学」は新しい目をくれるもの
今日は、“トポロジー”という数学を使って
「ジャグリング」をいつもと違う見方でみてみます。
数学がくれる新しい視点を少しでも
体感していただけたら嬉しいです。
途中途中に数学を学び研究するなかで
ぼくが世の中を見て、気づいたことも
お話ししたいと思っています。
よろしくお願いします。

2018年6月30日土曜日

ひろい

大槌に震災後移り住んで、頑張っている友達を訪ねた。
友達に紹介されて出会った人々はみな
とてもエネルギーに溢れていた。
ただ、大人の方がポツリとこぼした

子供と老人は新しいものにチャレンジしない
という言葉に、何か引っかかりを覚えた。

こんどやるサイエンスカフェの話を
現地の小・中学生に聞いてもらった。
とても素直な反応がとても勉強になった。
いろいろとアイデアもでてきた。

翌日は海岸沿いを旅した。
海という海は、塀で覆われていた。
堤防を登りきると開ける景色が
綺麗で、そして切ない。

ぼくの旅はいつも行き当たりばったり。
「碁石海岸入口」という囲碁好きの
ぼくの興味をひく駅があったので、降りる。
何にもないので、道ゆく人に話をきくと

こっちの道をまっすぐ行くと、碁石海岸さ
というので向かう。
碁石海岸まで約4kmあった。
田舎道を歩くのは楽しかったけど
うん、遠かった。

こんにちは。暑いねー
暑いですねー

昔の旅を思い出す挨拶をした。
どうやら碁石はないらしい。
同じ道を歩いて帰った。

友達がおすすめしていたので
「奇跡の一本松」をみた。
よかった。

広い。とても。
人の「手がついていない」場所は
草木が生い茂っていた。

塀に囲まれた海では
海鳥たちが、楽しそうに遊んでいた。


いろいろ感じて、それでも
ぼくは、ちゃんとぼくだということが
とてもよくわかった。

2018年6月23日土曜日

まくら

おまえが毎日生きてておもしろくないのは
おまえがおもしろくない人間だからだ!
小学生のころ、どこかの物語で出会った言葉である。
タイトルもどんなお話だったかも忘れてしまったので、
細かい表現はきっと違う。

ショックだった。
最近つまらないと、ずっと思っていたから。
そして、自分は精一杯やっていると思っていたから。
学校は学級崩壊していた。
友達と、お助け救助隊なるものを結成して
なんとか崩壊を食い止めようとしていた。
友達を、クラスを、ぼくらは助けたかった。
いつしか先生は、クラスが治まらないのは
ぼくらの頑張りが足りないからだと
そう言うようになった。
そうか、楽しくないのは
ぼくがつまらなくて、ダメなやつだからだ。
冒頭の言葉はアタマにずっと残っていた。

そんななか、ぼくは跳ぶこと、が好きで楽しい
ということを、みつけた。
跳ぶことで、学校の代表に選ばれ
小さな大会で優勝してメダルをもらった。
嬉しかった。
楽しい!ぼくは、楽しい!

いま、ぼくの膝は
小さい頃からの無理がたたって、ボロボロ。
半月板と呼ばれるクッションの役目をはたす
軟骨のようなものがズタズタにさけ
手術でほぼ切除してしまった。
自転車に長時間のれない。
スノボはとても楽しくて、好きだけど
一度滑ると5分は立てなくなる。
もちろん、もう跳べない。
激しい運動はもうできない。

でも、それでも

ぼくはいま、毎日楽しい。

おもしろき
こともなき世を
おもしろく

高杉晋作はそんなふうに歌っていた。

2018年6月16日土曜日

W杯 対戦国

ワールドカップが始まりましたね!

ワールドカップは今まであまり
知ることがなかった国を知るチャンス!

ということで、対戦相手について調べてみました!

6/19 コロンビア
コロンビア共和国
人口:約4800万人
言語:スペイン語
通貨:コロンビア・ペソ(1ペソ≒0.04円)
FIFA ランク:16位

コロンビア出身の数学者をさがしてみると
アメリカのコロンビア大学の数学者が
たくさん出てきます。
なぜ名前が同じなんだろうと調べてみると
コロンブス由来の場所がコロンビアと呼ばれているそう。
ぼくの師匠がコロンビア大学で学位をとっているので
ちょっと親近感です。

6/24 セネガル
セネガル共和国
人口:約1500万人
言語:フランス語
通貨:CFAフラン(1フラン≒0.2円)
FIFA ランク:27位

東京都の人口が約1400万人らしいです。
同じくらいですね。
「セネガル 数学者」で検索したら
セネガルの人間国宝である打楽器奏者の方がでてきました。
「リズムの数学者」らしいですよ。
実はコロンビアもらしいですが、主食はオコメとのこと。
今回、日本が入ったグループHのうち
次のポーランドをのぞいてオコメの国です。

6/28 ポーランド
ポーランド
人口:約3800万人
言語:ポーランド語
通貨:ズウォティ(1ズウォティ≒30円)
FIFAランク:8位

ポーランドは強そうです。
ポーランドはたくさん数学者を輩出しています。
有名なのはバナッハさん。バナッハ空間などに名前が残っています。
バナッハ空間は彼が博士論文で導入した概念だそうです。
バナッハ・タルスキのパラドクスのタルスキさんもポーランド。
ぼくは知りませんでしたが(学部が数学じゃないから許してください)
ツォルンの補題はクラトフスキ・ツォルンの補題とも呼ばれるらしく
このクラトフスキさんもポーランド出身。
ちなみに、ですが関東地方の人口は約4300万人で
ポーランドより多いです。

サッカーも数学もとても強いポーランド。
数学頑張ります。
サッカーも頑張って欲しいです!

今日はここまで!

2018年6月9日土曜日

マナブワケ

人はなぜ学ぶのか。
なんで勉強しないといけないの?

この問いに対する答えは
沢山あって
研究などをして、生活しているぼくらは
きっと''自分なり''の答えを
持っている必要があると思っている。

これを学ぶと、こんな風に役に立つんだよ。
この理論は、こんなところで実は使われているんだよ。

そんなよく聞く答えに
ぼくは全然こころときめかない。

とりあえず、もし先生という立場で
生徒から、そんな質問をされたら
きっとそれは
「仕事とわたし、どっちが大事なの」
というのと同じで、
そんな質問させてごめんねと
そう思うべきだと思っている。

いま、学んでいることが
新しい世界を開いて
いままで見たことのない景色へつながると
そう感じてもらえるように、したい。

それでも、答えを求めるならば
ぼくは
「自分の足で、あるくため」
と、そういいたい。
こう使えるとか、こう役に立つとかは
誰かが、歩いた足跡の話。

誰も進んだことのない
だけれども、自分が信じる道がみえたとき
一歩を踏み出せるか
踏み出した先でやっていけるか。

誰も進んだことのないその道を進むには
何が必要か、何が役に立つのか
誰もわからない。
だから、いろいろ準備する。
チャンスを掴めるのは、準備ができているやつ。
学校で習うのは
こんなのが役に立つのではないかと
そうやって、色々な人が集めた
先人たちの経験。
使えるかもしれないし、使えないかもしれない。
学ぶことは確かにあるはず。

もうひとつ、そうやって
「学び」をきちんと続けていけば
きっと、一歩を踏み出す勇気になる。

何が起こるか
どんな困難があるか
わからない。

けれど、ずっと学んできた経験があれば
何が起きても、そこから学んで
きっと進んでいけると
そう思えるのではないかと。

七転び八起き
転んで、立ち上がるときにより学べるように
まずは、なんでもないときから学んでみるのが
きっといい。

ぼくの高校の校訓は
九転十起
転んだ後に学ぶ力がついてれば
最後に立ち上がりさえすれば
きっと、転んだ数だけ強くなる。

2018年6月3日日曜日

ココロはケガをする

一昔前、ぼくがダメになったときの話です。
書きたいのは、そのあとどう戻ったか。
正直言うと、いまでもその途中なので、どう戻ろうとしているか。
すこし長くなります。

はじめに、これは自分の器を計りきれず、
考えなしに様々なことを引き受けてしまった自分自身の失敗であり、
周りにいて下さった方々は何も悪くないということを断らせてください。

研究に、プライベートに、すこしだけきついプレッシャーがありました。
思えば、実際に体に症状がでる2−3年前から''種''は育っていました。
うまく集中できない期間がだんだんと長くなり、
いつしか集中ってどんなふうかわからなくなっていました。
すこしずつ育った''芽''にいくつか大きなプレッシャーが重なり、
自分でわかる''反応''がでました。
人が近づいてくる、電車に乗るといったことが本気で怖くなりました。
駅のホームで、あ、あと一歩跳んだらもうぜんぶ考えなくて良くなる、
なるほどな。と思ったりしました。
ただ、本当にひとはこんな風になるんだと、
どこか外から見ている自分もいて、
その意味では壊れきってはいなかったのかもしれません。

ぼくはそれが、うつ、とよばれることを認識していて、
そして無理をしない、自然に触れるなど、治すのに良い方法を知っていて、
さらに、かなり自由の利く状況だったこともあり
そこまで悪くならずにすみました。

紫陽花の季節で、家から近かった鎌倉や江ノ島を散策して、
優しい方に巡り合ったりもして、数ヶ月で''普通''の状態までは戻りました。

しかし、そのあともう一度、全力で前に進もう
そう思ったぼくに声が聞こえるのです。


おまえは一度 ダメになった人間 もうがんばっては いけない


実際、全力で走ろうとすると、''つまずき''ました。
聞こえる声は説得力をまし、後戻りしてしまうことを繰り返しました。
巷にあふれる声も、そんなとき、頑張るなというのです。

幸か不幸か、''普通''でもそれなりに前に進みました。
でも、ぼくはここ(数学と工学3)を知っていて
なにより、この感覚(考えるということを考える)を
ずっと感じられなかった。

がんばりたい、でも、がんばれない。

過ぎていく日々、
''普通''には進む自分。

これでいいのかもな。
ぼくは、こんなもんなのかもな。

走ろうとしてはダメになる自分。

いまの自分を受け入れよう、
受け入れさせようとも思いました。

1年ともう少し、そんな風に過ごして、
ようやく、そんな自分を受け入れようと思い始めたそんなとき、
心のずっと奥で、ずっと押さえつけられながらも
燻っていた火種が叫びました。

イヤだ まだ走れる 走りたい


そんなことを言われても、走るとまたダメになるんよ。


そんな中、大きな失敗もしました。
論文にミスが見つかり、ひどく自分を責めました。
救いだったのは、これ以上ないと思うほどの優しいレフリーレポート。

時間がかかってもいい。直して、もう一度もってこい。みてやる。


数週間ほど、走らされるように、走れた。
けど、ミスは直らなかった。

ぼくは、当然のようにまた、走れなくなりました。



***


あれはたしか井の頭線、明大前付近、いつかの春。
ふと、ああ、これはケガなんだと、
なんの前触れもなく思った。

カラダと同じようにココロもケガをする

いろいろなことがすっと理解できた気がした。


いま、自分がうまく走れないのは、
足首をネンザしたまま、走れないのと同じ

きっと、一番ダメだったときぼくは''骨折''していた。
それだとたしかに、一歩も動けない。

ネンザは厄介。
頑張れば走れてしまうから
そして走るともれなく、悪化するから。

足首ならまだ良い、悪くなったらちゃんと痛い
どうして動けないかよくわかる。

でもココロは、なにも言わず、
なんなら乗り越えてみろよと言わんばかりの反応をだして、
そうでいて、無理するとちゃんと動かなくなる。


一筋縄にはいかなそうだけれど、ケガだったら。
ぼくは元陸上部。ヒザをケガして手術して、それでも続けていた。
ケガの後、どうすればいいのかを、知っている。

きちんと治して、治った後も
走る前、走った後、きちんとケアをする。

いろいろな意味があってはじめたこのブログですが、
ひとつは、''アイシング''。
いろいろな刺激で動いたココロを、
冷やして、自分が''置いておきたいところ''に
きちんと置きなおすために、書いています。

なるほどな、と思った。
そして、「前」がだんだん、みえてきた。

うつになるような、ダメになってしまうような人間は
弱い奴だとどこかで思っていた。
弱い自分は頑張ってはいけないと。

ケガだと思うと、そんなことはなかった。

アスリートはみな、どこかしら、
もしくはいたるところ、ケガをしている。
手術が必要になり、長期間動けなくなることもある。

彼らはカラダが弱いのか?

そんなことは、ない。

普通なら、逃げ出してしまうほどの負荷から逃げなかったから、
普通なら、たどり着けないような境地を目指して、努力をしてきたから、

それでなお、走り続けるから、
ケガもするんだ。

誰よりも、強いから、
ケガもするんだ。

一番厳しい自分は、認めてくれなかったけれど、
たしかに結構、がんばってきた。

そういえば、いろいろな人に支えられてもいた。
もともと生意気なぼく
不安定になってより生意気になっていた。
友人も、ひとまわりも、ふたまわりも上の人たちも
腹も立っただろうに、変わらず接してくれていた。

勉強を、研究を続けたかったのに、辞めていった友達もたくさんいた。
辞めて行く友達が、去り際に言った

まさいをみて、はじめて勉強することがカッコいいことだと思えた
いつかまた、飲もう

たぶん一生忘れない。


ケガなら治る。
折れた骨は、くっつく。
より強くなる。


走りたい 走らなきゃ


閉じ込められていた、燻った火種を外に出してみた。
酸素に触れると、ちゃんと燃えた。

この火はそんなに強くないことを知った。
風や雨が来たら、ちゃんと守ってやらないといけないと知った。

でも、守ってやればまだまだちゃんと、燃えるらしい。

よかった。
ぼくはまだ、走れる。


そう思って、もう数年。
少しずつ走って、論文のミスは直せた。
一番のお気に入りができた。

まだまだ探り探り。
だけど、ぼくはいま、元気で楽しい。
そして、ちょいちょい走ってる。

よかった。

本当はケガなんてしないで、日々過ごせれば一番だけど、
もしかしたら誰かの役に立つかもしれないので、
置いておきます。

きっと、大丈夫。

2018年5月26日土曜日

サイエンスカフェ

東北大学サイエンスカフェというので
講演します。

http://cafe.tohoku.ac.jp/cafe/basic-science/180711.html

数学者は「数学にできるもの」を日々探している。
芸人さんが日常に笑いを探すように。
笑いのある日々と同じくらい
数学のある日常も
きっとよいもの。
簡単な数学から大学レベルの数学まで
言われないと気づかないけれど
確かにそこにある数学を紹介していきます。

いままでブログに書いて来たことをもとに
いろいろお話しします。

数学があると
何気ない日常がちょっと変わってみえる。

そんな考え方を紹介しつつ
トポロジーって何か、どんな風に応用されるのか
そんなお話しをします。

みなさま、ぜひ。


2018年5月19日土曜日

繕い裁つ人

映画をみて考えたこと。
あまり内容には踏み込みませんが、
ネタバレ等がいやなひとはすみません。

















繕い、裁つ、ひとの話。
先代の洋服を、ただひたすら直す。
着る人の思いに寄り添って
服を直していく。
物語はそこから
主人公が新しい出会い
周りの人の変化
いろいろなきっかけを積み重ねて
ついに、''自分の手''で
布に触れるまでを描く。

そんな物語をみながら
自分の数学に対する向き合い方について
ずっと考えていた。

ぼくらは新しいものを生み出さないといけない。
さもなければ、''次''はない。

既に出来上がっているもの
それを学ぶのはそこから新しいものを生み出すため。

だから、ついつい
議論に隙はないかとか、
見過ごされている一般化はないか
だとか
''悪いところさがし''をしてしまう。

繕い裁つ人
既に出来上がっている洋服を
尊い、守り
本当に必要なところだけを、直す。

最近、そんな風に他の人の論文を
読んだことがあっただろうか。

そんな風に、むかしのもの、を
大切に、大切にしてきた人が
最後の最後に、自分で洋服を作った。

ぼくはその洋服はどんなに素敵だろうかと
そのものを見ずして、わくわくした。

ぼくがいつか作る、''あたらしいもの''が
そんなふうに、人にわくわくを与えられたら。

そう思うと、ぼくにはずいぶん
足りないものあると

悲しいんだか、嬉しいんだか、
なんとも言えない、そんな心地になった。

2018年5月12日土曜日

風薬

季節の変わり目に風邪をひいた。

と言っても、夕方に体調が悪くなり
一晩ぐっすり寝たら良くなった。

夜、横になりながら
薬を飲むか考えた。

どうやら最近のぼくは体調の二階微分で
薬を飲むかを決めるらしい。

微分というのは変化のスピードで
体調の一階微分はどれくらいの速さで体調が変化しているか。
それが、マイナスであれば徐々に悪くなる。
プラスであれば回復していく。
もう一回、微分すると二階微分。
体調の変化のスピードがどれくらい変化するか。
例えば、一階微分がマイナスで体調が
少しずつ悪くなっていたとしても、
二階微分がプラスなら、体調が悪くなる速度は徐々に落ち着き
いつしかプラスに転じる。
そうなれば一晩寝れば、すっきり治る。

10代も終わりの頃
ようやく体調そのものを
感じることができるようになった。

20代、段々と体調の変化の速さ
一階微分が大事であって
それを感じるようになってきた。

いま、30代
二階微分を感じて、そこがマイナスだったら
薬を飲もうと思っている。

あぁ、変なことを言っているな
自覚はしています。

でも、おすすめ。

2018年5月6日日曜日

常識

常識にとらわれるな!

よく言いますね。
常識ってなんだろうと
昔から考えていました。

常識的に考えて無理
常識外れなことするな

多分、こんな使われ方をする''常識''には
とらわれないほうがいい。

常識って、ただただ悪なのだろうか。

常識のある人
これは、褒めてる?
それとも、つまらないやつ、ってこと?

常識を疑え
だんだん、それっぽくなってきた気がする。
全部が全部間違っているわけではないんだよね。

それで、ぼくがたどり着いた、ひとつの解釈は
常識は「無駄に失敗しないための知恵」

先人たちが、さんざん繰り返してきた失敗を
君たちこうしときな、と
残してきたものが、常識かなと。

たくさん学ぶことがあるけど
いつでも正解なわけでもない。

常識にとらわれない数学
できるようになりたい。

そのためにも
常識的な数学
もうちょっと勉強しないといけないかなと
思ったりしています。

2018年4月28日土曜日

スポーツ

ぼくはスポーツが好き。
みるのも、自分でやるのも、とても楽しい。

体を動かすのはとても気分が良い。
ギリギリの攻防
水面下の駆け引き
想像を超える動き
みるのもとても楽しい。

スポーツをやると人間ってすごいなと思うことも多々。
自分にはできるわけない
そう思ってもやってみると、結構できる。
長く続けると、さらにおもしろい。
想像すらできなかったようなことを
できるようになる、ことがある。
新しい景色が見える。

そうして得た、いろいろを持って、戦う。
大抵はもっとすごい人がいて、打ち負かされる。
頑張ったんだけどね。
とんでもなくすごいと思った人を
完膚なきまでに打ち負かす人がいることを知る。

その頂点にいる人たちが、争うのをみる。
奪い合い、傷つけ合うのを見て
熱狂する。
演者は幾重にも張り巡らされた仕掛けを使って騙し合い
鍛え抜かれた力で相手を倒す。
見ている人たちは酒を飲み
相手を罵倒し罵り合う。
勝者が決まり
敗者が横たわるのを見て
何万人もの人が歓喜に震える。

重圧から解放された
それまで争っていた人々は
握手をし、互いを讃える。
ぼくらはボロボロになるまで争う人を見て
これこそが最高のエンターテイメントだと
満足する。

とても、おもしろい。

ぼくはスポーツが好き。
みるのも、自分でやるのも、とても楽しい。

2018年4月22日日曜日

ない

いろいろ、書きました。
10年ちょっと
数学を研究して思ったこと。
30年ちょっと
生きてみて思ったこと。

たくさん''貯めて''から
書きはじめて
そろそろ、ない。

なくなってからが
はじまりだったりするんだろうか。

2018年4月14日土曜日

スモールワールド

ここ最近、世間は狭いなーと
思うことが何度かありました。
それで、スモールワールド性なるものを
思い出しまして。
友達の友達の友達の友達の友達の友達。
これくらいたどると
世界のどの人にでも繋がれる、らしい。

それとバースデーパラドクス。
40人くらい集まると8割くらいの確率で
同じ誕生日の人がいる
の考え方を合わせると、
「世間が狭い」と感じる現象が
頻繁に起こるのは必然 、らしい。

けど、やっぱり友達の友達くらいで
思いもよらない繋がりがあると嬉しい。

うん、嬉しいは結構その辺にあふれているんだ。
と、そういうことにしました。

2018年4月7日土曜日

酢学

お酢が好き。

前回、数学会と書こうとして打ち間違えて
酢学会とでて、なんと楽しそうと思った。

先日、友達とご飯を食べてるとき
ひょんなことからお酢の話に

お酢ってめっちゃ美味しい!
ケチャップとか、マヨネーズとか
全然腐らないのはお酢のおかげなんだよ!
(酸性になる)
お酢だけぼくは1リットルで買うよ!

とお酢押ししたらポカンとされて笑われました。
お酢、オススメ。

間違いから広がる思考もときに楽しい。

でも、今回の冒頭の文をタイプするとき
最初の変換は

オスが好き

でした。
おっと。

2018年3月31日土曜日

数学会

数学会に参加してきました。
たくさんの分科会があって、
各分科会ごとのセッションに分かれて講演があります。
通常、数学の講演は1時間ほどですが
数学会ではだいたい15分。
(1時間の特別講演などもあります)
1時間、知らない話を全くわからないまま聞くのはつらいけど
15分なら、ということで
ぼくは自分と違う分野の分科会によく行きます。
分からないことも多いですが
いまその分野でどんな人がどんなことを
研究しているのかが感じられて
楽しいです。

いろいろなつながりもあって
思いもよらない分科会で
思いもよらない人と会えたりして
なぜか今回はたくさんの女の子と話せて
うん、ぼく、ほくほくしました。

2018年3月24日土曜日

小説

小説が読めなかった。
もっというと文章が読めなかった。
文庫本で、2ページくらいは大丈夫
けど、10ページも読むと、なんというか
説明のしようが難しいのだけれど
文字は意味を失い
頭の中でおとが響くだけになる。
理解は全くできない。

課題図書などで、どうしても読まないとならないときは
仕方ないからたくさん休憩をはさみ
ゆっくり時間をかけて読んでいた。

困ったのが国語の試験。
時間制限の中で速く読んで
問題の答えを速く探す必要があって
文字が途中で意味を失うぼくにはとても難しかった。

一度、トイストーリーが試験に出て
''読みやすい''という理由でとても長く
さんさんたるできだったことがある。
文字の数が、とにかく問題でした。


最近になって、自分が小説が読めるようになっていることを知った。
時間制限とか、課題とか
''強制''されることがないからか
たのしい
相変わらず、速くは読めないのだけれども。

文豪と呼ばれる人の本を読んでみている。
文章ってすごい。
スポーツとか''危ない''ときとか
いろいろな動きがスローになって
事細かに動きがおえる
めったにないことだけれども
経験したことがある人も多い現象だと思う。

それが、見事に表現されていて
ただ文章を読んでいるだけなのに
目の前には確かにスローに登場人物が舞っている
そんな体験をした。

いくつかの設定を説明されたあと、
勝手に数学が動き出して
先を読まなくても''動き''がみえる

そんなことを思い出したりもしたけれど
似ているような、すこし違うような。

文字が読めなかったから、
文字をたくさん追わないでいい
数学という学問が肌にあって研究している。
この''弱点''は、ぼくの数学をシンプルにするのに
役に立っていると信じている。

それでも、数学も詰まるところ、言葉でできていて
言葉で、言葉で説明できないことを説明するのが
きっと数学で
それを続けているうちに
自分が、まさに言葉でできている小説を
読めるように、楽しめるように
なっていることを発見をして
ふふ、ずいぶんうれしい。

2018年3月17日土曜日

いいてんき

「良い天気ですねっ!」
いいてんきですねぇ
「いーてんきですよね!いやあ!よおい!」

平泉に行ってきた。
陽気なおっちゃんと
あたらしい挨拶をした。

雰囲気のある場所
どこか懐かしい。

いちおしをとばして
人があまりいない庭園へ

すっかり春の陽気。
その中に
一面が凍った池。
歩けそうなほど凍った池は
はじめましてかもしれない。

おみくじを、引いてみる。

末吉
あたらしいことはやめておけ
という。

申し訳ないが運命さんよ
そこだけは譲れない。

やっぱりいちおしに行きたくなって
おっちゃんに道を尋ねる。

バスとかもありますが
いー天気ですから
いー天気ですから
歩いて行きましょう
あそこの道をまっすぐです。

本当にいい天気。
途中、冒頭の陽気な
おっちゃんと会った。

記念館があった。
忘れていた
子供のころ義経が好きだった。
義経は平泉を気に入り
鎌倉のまちづくりに
平泉を手本としたという。
懐かしさの理由をしった。

いちおしは見所も多々ありましたが
ひとがたくさん。
せわしない。
弁慶の像、大きくて顔が怖い。
家族連れ、子供がひとこと
「お母さんみたい」
「ちょっとやめてよー」
と、お母さん。
楽しそうである。

帰り道、ぶらぶら適当に歩くと
義経が没した場所に出会う。
向かう途中
「おーい、にいちゃん!」

有料でした。
おっちゃんが
ハンコの日付が狂ったから待てという。

「焦ったって、なーんもいいことないから」

ぼくの乗りたい電車までは
あまり時間がない。

「ま、いっか。ズレてたらごめんな。ポン。」

あってた。
高台へ登る
義経堂。

夏草や
兵共が
夢の跡

芭蕉がそう読んだ場所。

ぼくの前には
広がる田畑、山、川。

そして、大きな道路を走る
車、車、車。
更なる工事を、知らせる看板
生活している人々がいる。

世界遺産に登録された平泉
世界遺産にふさわしい街並みに!

工事の計画を知らせる看板
もちろん、住んでる人々が大事。

ぼくはただ
そのままでも、いいよ。

と、こころのなかで呟いた。

そうか
そのままでも、いいのか。

かえってきた
いいてんきだった。

気がつくと
小さな数学がひとつ、できていた。

2018年3月10日土曜日

プロモーションビデオ

まさいさんはここに体育座りです。

え、あ、はい。



研究所の広報の一環で
プロモーションビデオを撮るとのことで
協力しました。

2:40からちょっとしゃべります。
(その後もちょこちょこ映ります)



途中に挟まれる''講義風景''の撮影が楽しかった。
監督さんがちゃんといて
構図を指定された後
即席でそれっぽいセリフと動きを自分で考えて
それを撮ってもらいました。
ぼくが少しだけ''自由''であることがわかると
監督さんは演出をつけてくれるようになり
10年前、お芝居をやっていたときを思い出していました。
いくつかの演出に対応しようとして
数秒、左手がお留守になったりしています。

思ったのは、映像の撮影は演劇と似ているようで
結構ちがうということ。
演劇では、一つのシーンの練習にかけられる時間が長い
ひとつひとつじっくり作り込む。
今回の映像の撮影は、全部で15分くらい。
その''瞬間''に全てを出さなければならない。
難しかった。
映像で魅力的に映るプロの人は
普段どれだけ訓練しているんだろうと
想像だけで、ずいぶん尊敬した。

そして、研究のことを考えた。
数学の研究は演劇に似ている。
じっくり、じっくり考えて
そして得たものを少しずつ書き残していく。
一方で、例えば他の分野の人と話をするときは
今回の映像と似た感覚がある。
テーマも大抵決まっているし
それまでの積み重ねも大事だけど
その場その瞬間で何を出せるかが大事。
互いに関連しあって、
どちらもとても、おもしろい。

こんな風に、まったく違うものから
''同じアイデア''を抜き出すのが抽象化ですね
って話をブログを書き出した頃
よくしていたことを思い出しもしました。

とりあえず、おもしろかったです。

2018年3月3日土曜日

一人雪

雪の降る日に
旅に出た。


山中にある、名所に向かった。
なるほど、名所であって
人々が往き交う。

雪で滑る山道に苦労する人々。
どうやらぼくは
やっぱり道産子みたい
すいすいと登る。

頂上は本来
見晴らしがいいらしい
雪で何も見えない。

ま、ぼくは雪を見にきたのだから
いいのさ
と一人で勝手に満足。

登りで調子に乗ったぼくは
帰り道、見事に滑って転んだ。
ずいぶん久しぶりに
あんまりキレイに
すってんころりん
したものだから
こどものように、笑った。

駅に戻ると、電車は一時間後。
駅員さんにおすすめを聞くと
「なーんもねぇんだここは」
なぜかすごく嬉しそうだった。

「そういや、芭蕉の記念館があったな」

向かってみると吹雪いている。
ぼくの前には
かろうじて轍のおもかげ
足跡はひとつもない

「ま、冬だかんらやってねぇかもしれねぇけども」

なんとか、辿り着くと
やってた。

とびらを開けると
受付のお姉さんがあたふたあたふた。
そりゃ、誰もこないと思いますよね
そんな天気。

芭蕉の句がどうやら好きらしい
いいことを知った。

すべておき
当てなき坂を
一人雪

駄洒落である。
投稿俳句コーナーに置いておいた。

電車は一時間に一本だったので
ひとつ見送り、
芭蕉の句の中で雪を見ていた。

なんとか歩けるほどの吹雪
駅にもどる。

真っ白な視界に
二つ、目を光らせてやってくる電車は
なんだかとても
力強かった。

あぁ、そうそう。
数学。
歩いてるときは
半分くらいは考えている。
あとの半分は、まぁいろいろ。
こんな時に出会った数学は
この旅と一緒にあたまに残る。
それがとても楽しいのです。

一人雪。

2018年2月24日土曜日

ろくむし

いま思うと、小学生のときの
ぼくらの遊び場はとても楽しいところだった。

とある、マンションの広場
近所の子供達が集う。

よくいるメンバーは
ぼくの世代を大体真ん中に
上にも下にも2学年ずつくらい
自然と歳の違う仲間ができていた。

当時の2学年は、そのままの比で
いまにすると6、7つ違うくらい。
そんな場所で遊んでいたものだから
ぼくは少々の歳の差を気にしない
上の人からみたらきっと生意気な
そんなひとになりました(すみません)。

そこでの人気の遊びが「ろくむし」
調べてみると、昔からある遊びで
いろいろルールもあるようですが
ぼくらのルールと
ネットで見つかるルールはまるでちがう。

ぼくらの遊び場は狭く
すぐにボールが誰かの家に入ってしまうため
(知らないひとの家にボールを取りに行くのは気まずい)
いろいろな遊びのルールはどんどん変わっていった。
たとえば、サッカーでは
「全力でボールを蹴ること」が禁止だった。
シュートが"強すぎる"と反則でノーカウント
パスをつないだり
ちょっとしたワザを磨いたり
"力を使わず"に、それでいて本気で
遊ぶ方法を考えていた。

たくさんの遊びのなかで
ろくむしが特に印象に残っている。
いま考えるとそれは
ルールに改良の余地がたくさんあった
そんな理由かなとも思う。
ぼくらのルールは、遊び場の地形を
ふんだんに盛り込んでいる。
ルールを作って、遊んでみて
"裏技"がみつかり、しばらくそのまま遊んで
"裏技"の対応策がみつかったり
のっぴきならなくなって
ルールの方をいじってみたり
そんなことを繰り返していた。

この繰り返しは、よく考えてみると
「何かを作る」
そのプロセスそのものだった。

ぼくらはみんなで
「ろくむし」という遊びを
作っていたのだと思う。
楽しいわけだ。

世の中にあるもの
ほとんどがそうだと思うけど
見るより、与えられるより
自分でやってみるほうが
自分で作ってみるほうが
圧倒的におもしろい。

歳も違い、体力も違うみんなが
広さや地形に制約があるなかで
楽しく遊べる場所をつくる
そんな"おもしろい"を知ってしまったものだから
与えられた何かに従ったりする
そんなことに疑問を持つようになったのかもしれない。

数学って、正しければ何をやってもよくて
それが魅力だと思っている。
小さい頃の遊びの延長にも思えている。

聞くところによると
そういう遊び場が減っているらしい。
ぼくらのかつての遊び場も
"遊ぶこと"が禁止されたと聞いた。

ルールがあって、大人がいて
安心して遊べる場所もいい。

ただ、自由に遊ぶってのも
いいもんなんだけどな。

そんなことを思ったりした。

2018年2月17日土曜日

やらかす

白状すると、ぼくはとても"ミス''が多い。

君の仕事はいつも9割までだね。

そんなことをいわれたり。

もちろん手をこまねいているわけではなく
いろいろ工夫はしている。
一度、レフリーレポートで
「この論文には(英語も含めて)ミスはひとつもなかった」
と書いてもらえたことがあって、それは嬉しかった。

ただ、依然、ちょいちょいやらかす。

思い返すと、小さい頃から
"ケアレスミス''って、なんだろう
結構ゆるされてしまっていたなと思う。

本質は理解してるから大丈夫
次からは注意しようね。

その繰り返し
甘えてしまっているようです。

でも、世の中では”ケアレスミス''が
あっちゃいけない場面が多々あって
なんというかそれに対する訓練を忘れて育ってしまったなと。

 一念発起して、ケアレスミスをなくそうと頑張ってみると
 ずいぶん自分は、怠けているということに気づく。
 ミスをしないために、きっと
 やっているひとは
 やっているであろう
 いろいろがあるようです。

なかなか体に染み付きませんがやってみてます。

そうそう。
昔、ぼくは辛いものが苦手で
どうしようもないくらい苦手だったのですが
辛いものしかない国に出張で2週間行くことになって
生きていけなくなったら困ると思って
"修行''して
いまは、辛いものが結構好きになっている。

どうしようもないほど変えられないと思っていたこと
変わるんだ。

きっといつかミスもなくせる、なくす。

2018年2月10日土曜日

わかりやすい

わかりやすい、ブームです。
難しい数学の話を、わかりやすく紹介します。
わかりやすい授業ができます。

わかる、って楽しい。

だから、こそ。
ぼくはそのブームに乗れない。

その昔、中学か高校かのとき
先生があまりに予習なるものを勧めるものだから
事前に授業の内容を勉強していったことがある。

今まで、''知らないこと''に出会えて、わかって、
ワクワクしていた授業が、
"知っていること''だらけになって
とても、つまらなくなった。

たとえ、授業のその場でわからなくても
家に帰って、じっくり考えて、そうしてわかる。
そのプロセスが好きだから。
"いたずらに''わかりやすいより
そのまま、伝えて欲しい。
"いたずらに''わかりづらいのは
もちろん困るのだけど。

ひとつ、お願いをするとしたら、
「わかりたい」と思わせて欲しい。
たとえば、''よくわからない魅力''でも置いておいてもらえれば、
あとは自分でやるからさ。

そんなことを思って、ぼくからでてきたつぶやき。

--
赤ちゃんにとって世界は「わからない」で溢れている。
それでも,嫌になって諦めるのでなく、
「生まれて初めて見る」その光景を少しでもわかろうとした。
どうしても分かりたいと思うほど魅力的だったから。
授業やプレゼンは別にわかりやすくなくてもいい。
ただ、魅力的であればいいんだ。
--

お気に入りなのです。

2018年2月3日土曜日

マルセイユ

マルセイユ、ジダンの生まれたまち。
来るのは2度目です。

早朝にパリにつき、そこからマルセイユ便へ乗り換え。
マルセイユ便では日本人の姿はほぼなく
フランスの方ばかり。

飛行機の中に、朝日が差し込む。
あぁ、フランスだな
誰一人、窓を閉めないのを見てそう感じる。
水平方向からの光で、中の方までまぶしいけれど、
ただ、朝日を浴びている。
体全体が「ぼくのちしお」なのか
朝日のせいか
真っ赤に映える窓際のおじさん。
広げた新聞とコーヒーがよく似合う。

マルセイユについて、集会の会場まで移動。
最寄りの駅までたどり着き、そこからバスの予定。
ところが地元のサッカーチームの試合があり、
なんとバスがほとんど動いていない。

熱狂的なサポーターが爆竹をいたるところで鳴らし
発煙筒をふりまわす。

これは確かに少し怖い。
スポーツは好きですが、ときに野蛮さを感じて
スポーツを嫌がるひとの気持ちも良く分かる。
このあたり、書きたいことがありますがそれはまた後日。

周りのひとの協力のおかげでなんとか無事にたどり着く。

怖かった経験でしたが、サッカーの話は
ヨーロッパの研究者と会話のきっかけに
とても役に立つこともある。
初日の朝、サッカー談義に花が咲き
参加者と仲良くなれて幾分か過ごしやすい。

日仏の研究者が代わる代わる講演。
フランスと日本、似ていて、やっぱりちょっと違う。

大自然の中に、ぽつんと大学がある。
レーゲンズブルグのときにも書きましたが
簡単に''危ない''みちへでれる。

大学から少しだけ歩くと
断崖絶壁に面した散歩道。

みんな気ままに歩いている。
守られていないのは、少し怖い。
すべてが自己責任。
けど、そんなみちを歩くと
"あるいている"実感がある。

自由って、きっとそういうこと。

いろいろと考えることが多かった出発前。
フランスの、数学に、自然に、''危険''にふれて
ひとつ、小さな決意をしたりしました。

何日かに分けて少しずつ書いたので
なんだか話題がフラフラ。
自由って、きっとそういうこと(ちがう)

もう最終日。
いろいろな思いをもって、帰ります。

2018年1月27日土曜日

俳句、短歌

東京よ
雪ふる音も
掻き消して

昔、「東京駅で雪」というお題で俳句を作るという企画をみて勝手に作った俳句
気に入ってはいますが、深みはたぶんありません。


日本語は科学的な議論に向かない
という意見がちらほら。

でも、どこかで読んだ「俳句、短歌」という文化と
数学の相性の良さはここで繰り返し主張してもいいかなと思います。

数学では、いろいろな情報を"捨てて"最後に残った大事なところをみる、
という考え方が大事です(少なくともぼくは好きです)。
これが、俳句や短歌の文字制限のもと、情景を記述する、
という日本で昔から行われている遊びととても相性が良いと言われています。

前にも書きましたが、ぼくは"密度"の濃い表現が好きで
その意味でも、数学と、俳句や短歌は似ています。

「ひとこと」にどれだけの意味、気持ちがこもっているか。
文章や、お芝居や、様々な物語もきっと同じ。
ひとことを、
「一手」に変えれば囲碁に。
「一瞬」に変えればスポーツに。

気づかなければ、見逃してしまうほどの「そこ」にどれだけの"密度"をこめられるか。

まだまだ"絶対量"が足らなくて、そういう数学が書けないのが悔しいですが
目標はこんな感じです。

2018年1月20日土曜日

あっちそっちこっち

少し前に、なんだかとても良い講演をきけたおはなし。
気にはなっているけれど、
よくわからないと思っている分野は
結構いろいろあります。
そのうちの二つ、全然関係ないと思っていた二つが
実はつながっております、という講演。

数学をやると''絵''が見えます、そんな話をなんどかしましたが、
実は、絵が見えるためにはその分野において
ある程度経験が必要です。
(少なくともぼくの場合)

定義を見ても、その分野の人が何を、見ているのか
なかなか見えないことも多々あります。
直接聞いてみても、こっちの言葉とあっちの言葉の違いもあって
なかなかうまくわからない。

先日の講演では、あっちと、そっちの、言葉が、
ぼくが最近、こっちに、あることに気づいた言葉で説明されて
ずいぶんわかった気分になれたのです。
細かいところをきちんとわかったわけではありませんが、
ずいぶんと良い気分になれる講演でした。
語り口もなんだか素敵で、心地よかった。

ぼくは気ままに、やりたい研究をやる人になりたい。
そのために、知らない分野もどんどん学びたい。
そんなとき、''気分''がわかっていると見えかたがぜんぜん違う。

良い講演をきけました。
ぼくもあんな講演ができるように、なりたい。

2018年1月13日土曜日

考えるということを考える

今日は「集中」すると言うことについて。
20代前半のときは自分でもよく「集中」出来ていたなと思うのですが
その「集中」はよく聞くそれとは、少し違う、気がするというおはなし。

気がついたら朝だった。

そんな"集中"をよく聞きます。
しかしぼくは、もちろん通常よりは頭は動いているが
上手く集中できて"いない"ときに
あっという間に時がたったと感じると思っています。
単純作業、計算、プログラミング。
頭は動いているような、止まっているような。

考えてみると、そんな"集中"は
「時間」に「感覚」が置いて行かれている。


ぼくが、「集中」できたと思うとき、
1時間や、30分といった、短い時間に
ものすごい沢山のことが「わかる」。

いつもなら数時間、もしかしたら月単位で得たであろう感覚を
"一瞬で"得る。

時間に対して,自分が非常に"速く"動く。

これは何なのだろうと思い、考えて、ふとこれは
スポーツでよく聞く「ゾーン」に近いのかもしれないと思う。
この「集中」を目指したい。
スポーツで、時間に対して自分が置いて行かれてはいけない。
きっと、「考える」でもおなじ。

「集中」すると言うことを「潜る」と表現する人がいる。
「3月のライオン」とか。
数学者でもそのような記事を書いているひとが。

なるほど、と思う。
潜ったときは時間がゆっくり流れる。
1分がとても長く感じる。
1分にいろいろなことを感じる。
感覚が冴える。
そして、とても心地よい。

思い返すと、
周りの音がいつもよりよく聞こえ
雑音に「弱く」、静寂を欲する。
そんなときに、よく「集中」していた。
いろいろ冴えちまう、そんな感じ。

「気づいたら朝」の集中は「何も聞こえなく」なり
きっと、少し、違うもの。

その「潜る」時間、「ゾーンに入る」時間の量が研究者として
大事なんだろうと思っていたし、今でも思っている。

実は,20代半ばを過ぎた頃から数年、ほとんど「そこ」には行けなくなった。

今は、たまに、です。

その辺の話は、また今度。

2018年1月6日土曜日

新年

初詣。

良いことも、悪いことも、どうぞそのままでお持ちください。

最近は、毎年そう願っている。
相変わらず良いことがあると調子にのるし、
失敗からは学びそこなってばかりだけれど。
そのままの、てざわりある日々を集めて、受け取って
良い一年と言いたい。

2017年は、「自分で動くと面白い」ということを
この歳になって再確認した。
今年は、もっともっとやっていこうと思います。


元日、向かいの家のおばあちゃんから
「まさいのお兄さん、電気がぜんぶ消えてしまった」
と呼び出される。
ブレーカーをいじったら、ちゃんと点いた。

うん、何をすれば良いのか、よくはわからないけど、
今年は良いことをしよう、と思いました。

2018年、はじまりました。
やってやりましょう!なにかを(あやふや)