2020年4月11日土曜日

センス

オシャレが苦手だ。
キライでなく、ニガテ。上手にできない。
どんな服を着れば良いのか?
素敵なインテリアとは?

上手にできない。でも、オシャレなものは素敵だと思う。
カフェによく行くのは、僕のニガテなオシャレをサービスしてもらえるから。
(注:これを書いたのは結構昔です)
そのほか、絵を描いたり、歌を歌ったりするのもニガテ。
面白おかしくお話しするのも得意でない。

だから、僕はずっとセンスがないんだと思っていた。
そして、評価されるものはいつもセンスに溢れてた。

センスがないと思っていた僕は、事あるごとにどこかで小さくなっていた。

だけど。気づいた。
自分のことを、自分で褒めるのは、はしたないけれど。
それでも、聞いて欲しい。

僕には、少しだけ思考のセンスがあった。

思い返すと、最初にそれを意識したのは囲碁を学んだ時だった。
僕は高校時代、1年とすこしだけ囲碁を学んだ。独学で。
そして、アマチュア六段の免状を持っている(頑張った)。
その時に使ったのが、磨かれたのが思考のセンスだった。

囲碁では、その枝分かれの数が、人間の理解の範疇を超えている。
だから、面白い。最近はコンピュータの方が上手だけれど。
全てを理解できない人間が囲碁を打つ際に使うのが、感性だ。
「一目千手」
プロ棋士が一瞬で読む手の数を自らそう評したが、実際はもっと多い。
時と場合によるが「次の3手」くらいは一瞬で見えることも多い。
中盤で150手の可能性があって、「次の3手」が瞬時に読めたら150*149*148で約330万手をみている。
そこから、一つを選んでいる。もちろん全部を見るわけでなく「感性」が教える少ない候補から選ぶ。
思考のセンスが必要だ。
今はすっかり忘れているが、当時はあやふやでつかみどころの無い局面こそに、自信があった。
感性なら負けないと思っていた。
この思考のセンスは囲碁をやることで磨かれたと思っている。

僕は高校時代、偏差値が分からなかった。
偏差値の順番にいい大学だと言われて、さっぱり分からなかった。
理屈は理解しても、分からなかった。
この「さっぱり分からない」と思えたところが、センスだ、と今は思っている。
実際、偏差値は全てではないのだから。それをきちんと感じ取っていた。
その感じ取った何かに、ちゃんと身を委ねたところがエライ(自分で言うやつ)

いま、数学を研究している。
計算能力、証明能力。全然足りない。
テーマ選びのセンスで戦っている。
テストだけなら、僕よりずっと優秀な人がたくさん、たくさんいる。
それでも、数学の研究ではちょっと評価されたりもしている。
果たしていつまでもつのか、どきどきもしている。

この感覚を磨くのに、ひとつ大事だと思っていることがある。
自分で選んで、そしてその選択に身を委ねることだ。
これはかなり、勇気がいる。失敗もする。
なるべく若いうちに、出来るだけ「選択と失敗」を繰り返すといいと思う。
若いうちなら、ほぼノーダメージだ。
確かに傷ついたり、凹んだりするけれど
少し年をとるとわかる、若い時のそれはほとんどノーダメージだ。
と言っても、いま、30代前半。今の僕でもせいぜいプチダメージだ。
どんどんやる気でいる。
多分あと10年もしたら、結構痛いんじゃないかと思っている。
それでもやる気でいるけれど。

自分の理解の範疇を超えた選択のなかから、何かを選ぶ。
そんなセンスがある。ただ、それだけを言いたかっただけなのに、アホみたいに自慢してしまった。
この辺のところは、本当にセンスがない。