2019年12月14日土曜日

ハイリホー

背理法というのは、目的の主張が「間違ってると仮定」して、すでに正しいと証明されている事実に"ぶつけて"、矛盾を導く論法である。矛盾は「間違っていると仮定したこと」が間違っているから生じた、つまり目的の主張は正しいのだ、という論法。

論法自体は正しい、だけどこれが「体に悪い」と思っている人が少なからず、いる。
背理法は「正しくない仮定」から議論を始めるので、導かれる主張はすべて「正しくない」。正しくない主張の中で時間を過ごすと、「正しいもの」への感覚が鈍る。いつ自分が正しい世界にいて、いつ自分が正しくない世界にいるのか、きちんと記憶して、分けて体に入れられたらいいのだろうけど、少なくともぼくはそんなに賢くないので、背理法はいつも怖い。正しいものを知るためには、正しい世界にいる感覚を体で覚えるのが大事だと思っている。

そんなことを思って、試験というものに思いを馳せてみた。
間違えると、バツがつく。とてもいやで、気になって、落ち込む。
周りにも言われるし、どうして間違ったかを見直す。次は間違わないように。間違わないように。
ぼくも学生のころ、そうやってきた。
いつも正しいのか、不安だった。

本当は、「正しいとき」に重きをおいた方が良いのではないかと思い始めている。
自分が正しい議論をしているときに、きちんと「正しい」と信じられること。
これが、とても難しい。でも、本当に大事。
この訓練が、おろそかになっていないだろうか。
演習問題に答えが欲しいと言われる。
ただ、多くの本に答えが載っていないからこそ、「自分が正しい」状態がどういうものか、訓練ができるのではないかとも思う。

正直、僕自身まだまだできていない部分が多い。

だけど、数学に限らず、何かを自分でやろうと思ったら。
なかなか認められないこともきっとある。
正しいと、信じられる何かを持っていることは大事だろうなと思う。