2018年7月21日土曜日

エッシャー展

エッシャー展に行って来た。
友人の「スターは呼び捨て」という考え方が好きなので
エッシャー、呼び捨てにします。

展示はカテゴリーに分けられていて
テーマ別に作品が並んでいた。
ぼくは、なんとなく"いつ"の作品なのか
気になって年代に注意して見ていた。
たまに、とても素朴な作品があって
それらは10代のころに作られたものだった。

若い頃は人物や、風景
徐々にキリスト教など宗教に関する作品が増えて行った。
戦争の後に、人を描くことをやめたという。

年齢を重ねるにつれ
作品から見て取れる思考の量が増えていく。
悩みや怒り、絶望に近い感覚
この辺を表現する日本語の力を
ぼくが持ち合わせていないのが歯痒いけれど
深く、ものを考えた人からしばしば感じる
悲しみ、がそこにはあった。

そうして、エッシャーは50歳くらいから
数学から発想を得たであろう作品がでてくる。

この思考の流れは、なんだかとても共感できた。
ぼくは演劇が好きでよく見に行くけれど
演劇、或いはもっと広く、芸術から
得体の知れない不安を感じることがある。

とても共感しているのだけれど
そこにある感覚が
"つかみどころがない"。
ぼくから見ると心もとない場所に
作っている人たちは
その瞬間の全身全霊を置いて来ている。
どうして、そんなことが
と怖くなる。

そういったものを見た後に
数学をすると、安心する。
"頼り甲斐"がある。
数学は、とても自由だけれど
一方で論理という強い制約を受けている。
それが、頼り甲斐の所以かと思っていたけれど
もしかしたらもっと深い理由があるのかとも
最近おもっている。

エッシャーのタイリングの絵をいくつか知っていて
それを目的に見に行ったけれど、
作品の年代をみながらエッシャーの思考を
自分なりに追いかけたら、
自分と似ていると、
まぁぼくが勝手に想像しただけですが
思えるところがあって
楽しかった。
いつか、年代順に並んでいる展示を
やってくれるといいな。

実を言うと双曲平面のタイリングの絵を
期待して行ったのだけれど
ぼくが見逃したのでなければ
展示はなかった。残念。
ポストカードがあったので
それだけいただいて来ました。