半月板損傷。本気でやっていた走高跳(こんな感じで)。
リハビリがうまくいかず、結局手術のあと跳べるようにはならなかった。
悔しくて、悔しくて、悔しくて。
身体中から湧き上がるエネルギーの矛先を探した。
ヒカルの碁のアニメをたまたま目にした。
囲碁なら、怪我をしていても、できるな。
弟とルールを一緒に勉強して、遊んだ。
僕は、もう少し勉強してみようと思った。
ネットを探すと、産まれたばかりのネット碁会所があった。
毎日ログインをし、だんだんと会ったことのない友人ができ、囲碁を打って遊んだ。
そのうちに、オンラインで囲碁の指導をしてくれる人が現れた。
実際に対局をして、色々教えてくれた。
学校の図書館に行くと、囲碁の本がたくさんあった。
通学の電車で囲碁の本を読むようになった。
少し勉強して、ルールを学んだ後とくに囲碁に触れていなかった弟と対局した。
負けた。
弟のやつ、パズル系に強めの才能を持っていやがった。
でも、僕は囲碁を学ぶことをやめなかった。
オンラインで毎日毎日対局した。
囲碁の本を読み漁った。
覚えている風景がある。
年末か、年始か。それくらいの頃。家の廊下で母親とすれ違いざまに。
ぼくは何気なくを装いながら、つぶやいた。
「囲碁、本気でやってみるわ」
母に聞いたら、全然覚えていなかったけれど、本気の宣言だった。
しばらくはオンライン、ネット碁をずっとやっていた。
教えてくれる人は結構たくさんいた。
パソコンの画面と毎晩にらめっこ。
そのうちに、碁盤が欲しくなってきた。
やっすい碁盤と碁石を買った。
実際に石を並べてみて、今度は人と打ってみたくなって碁会所へ行った。
家で実際に碁盤を使ってみて、碁会所で対局をしてみて、そして、驚いた。
見える、「深さ」が全然違う。
画面では見えなかった手がたくさん見えた。
オンラインでは集中できないというのは、不慣れなだけか、言い訳か。
幼い時からテクノロジーに囲まれた"ネイティブ"なら大丈夫なのか?
ずっと考えていたけれど、少なくとも僕から見ると「大きな差」がある。
僕は囲碁をオンラインで高校生の時に学んだ。
結構ネイティブじゃないか?
いま、オンラインで数学の話を聞いていても、本当の意味で集中した感覚は得られない。
もちろん、聞かないよりはずっと"まし"だけれども。
深みに入る入り口で、通行止を食らう。
しばらくネット碁を控え、碁盤で勉強した。
本を読んで、自分で考えた。
近所の碁会所のオーナーさんがとても素敵だった。
「本を借りたり、一局打つくらいならいつでもタダでいいから」
お言葉に甘えて、学校帰りにふらっとよっていた。
よくみると、となりの学習塾から中学生くらいの子がやってきて、
おじいちゃんと一局打ったりしている。
今思うと、なんと素晴らしい交流の場かと思う。
商売っ気のない場所は空気がゆっくりしている。
商業主義はそんな心地の良い場所を無慈悲に壊す。
高校を卒業し、僕は地元をはなれた。
しばらくみないうちに、その碁会所は無くなっていた。
タダになんかするからだ。ばかやろう。
高校時代の僕は定期的に通って、昭和の強豪の棋譜を借りて、片っ端から並べた。
タダだったから、いつも申し訳なかったけれど、お金もなかった。
僕は感覚派で、おなじく感覚派の棋士の勉強をすると強くなった。
逆に、地に辛く、読みの正確さで戦う棋士に触れるとしばらく弱くなった。
全ての棋譜をタダで貸してくれたあの碁会所には本当に感謝してるし
無くさないためにできることはなかったかと今でも思う。
通学の電車の行き帰りではずっと詰碁を解いていた。
それだけでなく、数学の授業の時間など演習問題を即座に終わらせ、
またまた囲碁の本を読んでいた。
朝早く起きて、棋譜を並べてから学校へ行った。
間違いなく、僕は、本気だった。
少しして久々にネット碁を打った。
すごい強い相手で、ボコボコに負かされた後、なぜか対戦相手から言われた
「今すぐ師匠を探して上をめざしたほうがいい」
センスをひたすら褒めてもらえた。
どういう成長曲線を辿ったかの記憶があまり定かでないが
「本気でやってみる」
囲碁を始めたばかりで、そう宣言したあと、1年と少しだけたった2月に
僕はアマチュア6段の免状を得ている。
なかなか頑張った記憶はあるが、今はとても自分のこととは思えず
他人のことのようにすげーなぁと思っている。
今、思うことは一つ。
確かにネット碁はきっかけになった。
そこからひらけた道ではある。
でも、僕は囲碁を始めて3〜4ヶ月後から、オンラインでのネット碁は打たなくなった。
リアルで碁盤で打つ時の、本気の集中が好きだった。
これは、まやかしなのか?
オンラインでも、本当は集中できるのか?
色々なことをいう人はいるだろうが、僕は思う。
本物の感覚は、オンラインでは、得られない。
いま、その感覚が忘れられようとしている。
久々に人と会って話した時、
言葉や表情(2次元)を超える雰囲気をやりとりした時、
残る感触が"学び"にも必要ではないかい?
人と会って、話して、"やりとり"をして。
お風呂に入ったら。
眠っていた感覚が生き返る、そんな気持ちの良さがあった。
人は皮膚でも会話をしている。
ずっと忘れていたものだった。
あったんだよ。あるんだよ。
それはどうしても忘れちゃならないものだと、強く僕は思う。
わかりますか?わかって、欲しいです。